NOVEL short(1000〜5000)

the Doughnut Hole


 巌勝の家には幽霊がいる。それは数百年前に生きていた双子の弟の幽霊だ。
 幽霊の存在に気づいたのは転勤でとあるマンションの一室に越したその日の夜だった。夜になってゆっくりと本を読んでいた時に、机の上のマグカップが動いたのを見た。
「…………」
気のせいかと思って本に視線を戻す。しかし、立て続けに物が動き、妙な音が鳴り、果てはドアノブがガチャガチャと回った。まるで巌勝に気付いて欲しいかのような強い主張を感じるほどだった。
 巌勝はやたらと家賃が低かったのはこういうことか、と一人納得する。
――……どうということもあるまい。
だが気付かなかったことにした。見えないならいないのと同じである。それに元鬼が幽霊(或いは怪奇現象、魑魅魍魎のたぐい)如きを怖がってどうする。
 巌勝はぐっと伸びをする。そしてガタガタと煩いダンボールの山の間をぬって浴室に向かった。今日はシャワーを浴びてさっさと眠ってしまおうと思ったのだ。
 そして脱衣所兼洗面所で服を脱ぎ、ふと鏡を見て人生で一番の叫び声をあげた。

 そこに写っていたのは他でもない縁壱であったのだ。戦乱の世で鬼を狩っていた頃の姿で巌勝の背後に立ち、にっこりと笑いながら手を振っていた。後ろを振り返る。しかし何もない。手を伸ばしても空を切るだけだ。
 もう一度鏡を見る。
 縁壱は困ったような顔で相変わらず笑っていた。

 巌勝は幽霊の縁壱を直接見ることはできない。触れることもできない。声を聞くこともできない。しかし鏡を介してなら見ることできるらしい。写真にも写る。
 そしてどうやら縁壱は家に出ることができないらしい。巌勝に取り憑くことで外に出ることも出来るようだが滅多にしない。縁壱の事だから、巌勝に負担をかけてはいけないと思っているのだろう。そう考えると巌勝は、なんとなく悔しいような、それでいて彼らしいと安心するような、何とも言えない心地になる。
「お前は私に触れられるし、私の声も聞こえるのに、不公平だよな」
ある夜、巌勝は言った。ベッドに横たわり天井をぼんやり見上げながら。なんとなく身体が重い感じがするから、縁壱が覆いかぶさってるのだと思う。
 鎖骨のあたりに鈍い痛みがはしり「ンッ」と声を上げてしまう。きっと縁壱が歯を立てたのだ。抗議しているに違いない。
「悪かったよ」
素直に謝ると、今度はあらぬところに触れられた。
「……さっきもしただろう」
呆れたように巌勝が言うが、返事はない。代わりにくちゅくちゅという水音が響く。巌勝は快感に身を捩った。堪えきれず縋るように手を伸ばすが空を切るばかりだ。
「っ、よりいち!」
たまらなくなって名を呼んだ。するとふわりとシーツが被せられる。そして、シーツ越しにしっかりと手を握られた。顔が隠されていることに、そして縁壱の手に安心して、巌勝は、ふっと微笑むのだった。
――幽霊と同居して、セックスしてる。なんて、とうとう俺も狂ってしまったらしい。
 巌勝は嗤った。一人で善がって、喘いで、馬鹿みたいだと思う。そんな時には巌勝は目を瞑る。そうすれば瞼の裏に彼の姿を思い描くことができるからだ。彼の重さ、立てる音。それらは縁壱の存在を感じさせてくれる。まるで縁壱はドーナツの穴のようだった。


 気だるい身体を持ち上げ風呂場へ向かうと、湯気でくもったガラスに「?」と文字が浮かんだ。うっすらと心配そうな縁壱の顔が写っている。
「平気だ」巌勝は答える。
「入ってくるな。外で待っていろ」
巌勝はムッとしているらしい顔を無視してシャワーを浴びた。
 すっかり身体を洗ってからリビングでテレビを見ていると、ピッとチャンネルが勝手に変わった。しし座流星群のニュースをキャスターが伝えている。次いで、コンコンとベランダのドアが鳴った。
「………見たいのか?」
巌勝が聞くと、肩がずっしり重くなる。部屋中に置かれた鏡の一つを見ると縁壱がニコニコ微笑みながら引っ付いていた。鏡を見ながら縁壱の頭のあたりに手を伸ばして撫でてみる。すると縁壱はその手に頭を擦り付けるように動かした。まるでイヌが戯れているようだ。巌勝はくすりと笑った。

 ベランダに出ると思いがけず夜風が冷たくふるりと震えた。すると、すぐに背が重くなる。
「………」
きっと縁壱が後ろから抱きしめているのだろう。温かくはならないが健気なことだと思う。
 秋の夜空は高くて澄んでいて、星も月も遠かった。
 一つ、流れ星が見える。
「見えたか?」巌勝が訊く。コツンとベランダのサッシが鳴る。
「また見えるかもな」
巌勝はぼんやりと空を見上げた。
「お前は、流れ星に何を願う?」
コツ、コツ、とサッシが叩かれ、肩がずっしり重くなる。心なしか寒気もする。
「ふふふ。くっつき過ぎだ」
またコツ、コツ、コツとサッシが叩かれる。きっと「兄上は?」と訊いているのだろう。
「私は――」
――私は、お前に触れたい。声が聞きたい。
巌勝は後ろを振り返り目を瞑ると、空中を抱きしめるように腕を伸ばした。そして言った。
「――さっさと転勤したい」
ずしんと全身が重くなった。そのことに巌勝はケラケラと笑った。ちょっとした嫌がらせの効果は抜群だったようだった。