夢のあとさき
真っ二つになってしまった笛を見た時の感情をどう言葉にしようか。黒死牟はぎょろぎょろと六つの瞳を動かした。
それはかつて黒死牟がヒトであった頃、弟に与えた笛だった。その笛は幼い彼そのものである。兄として弟を守ってやらねばなるまいというちっぽけで間抜けな自尊心、それは外れた音しか鳴らぬガラクタだ。黒死牟にとってその笛は苦々しい記憶なのであった。
そして弟は、その笛を大切そうに抱きながら「これを兄上と思い」などと宣う。
――そうだ、その通りだ。俺はガラクタなのだ。だからそんな大切そうに持つのをやめろ。
巌勝は笛を抱く弟が忌々しかった。しかしながら縁壱は笛を老いさらばえてなお、その胸に抱いていたのだ。
兄弟の縁など捨ててしまったも同然である兄からもらったものを、縁壱は死ぬ間際まで持っていた。
「お前は、ずっと――」
それを見せつけられた黒死牟は、己が弟に愛されていたことを理解させられた。弟の亡骸を斬りつけた時に燃え上がっていた激しい憎しみは、今やその色を変えている。
だがその感情をどう言葉にすればよいのか黒死牟には分からなかった。黒死牟はこてんと首を傾げて亡骸を見下ろす。弟の身体は真っ二つになっていた。まるでこの笛のようだと思った。小さな笛を広い亡骸の前に座る。
「いつからだ」
黒死牟は亡骸に問う。
「いつからお前は俺のことを」
それ以上は口を噤む。いつからお前は俺のことを愛していたのだ。それを言葉にしてしまったら、何かが変わってしまうような気がしたからだ。
縁壱の亡骸に小鳥がとまった。小鳥は白くなった縁壱の髪の上で不思議そうに縁壱に何事か囀るが、やがて飛び立っていく。
お前はいつもそうだった、と黒死牟は六つの目を閉じた。縁壱が指先を差し伸べれば鳥がとまる。俺は世界が美しいと思うのです、とかつて縁壱は鳥と戯れながら言っていた。
「草を食う虫、虫を食う鳥、鳥を食う獣。獣が息絶えればその身体を蛆が食い、腐敗し、草木が育つ。その大きな円の中にいると思うと、俺は安心するのです。自分が世界の仕組みの中の一つに過ぎないと思うことは――俺が何か大きなものの一つということは、孤独ではないと教えてくれる」
「何か大きなものの――?」
「ええ。大きなものの一つです……」
そして縁壱は頬を赤らめ「兄上とともに」と付け加えていたのを覚えている。
黒死牟が追憶に耽っていると、眼の前の縁壱の身体が見る間見る間に土に還っていった。
おや、と思う間もなく青い茎が黒死牟の方に伸びてゆく。六つの目を瞬かせていると、茎はふくらとした蕾を付け、やがて大きな白い百合の花を咲かせた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
滑らかな百合の花弁は黒死牟に接吻をほどこすと露をぽたりと落とした。黒死牟の手が濡れた。その手の中には二つになってしまった笛がある。黒死牟はしげしげとそれを眺めると「縁壱」と呟く。
そしておもむろに口を開けてゴクンと飲み込んだ。
空には暁の星があった。夜明けが近い。
黒死牟はすっくと立って森の中へと消えていく。
彼がそこに戻ることは二度となかった。