富を運ぶ魚
果たして巌勝がどこまで正しく『お金』というものを理解しているのか、縁壱は疑わしく思っていた。なにせ巌勝は金魚であるので。
貨幣の『使い方』の方ははきちんと心得ている。しかし、一方で『お金』は無限に湧き出るものだと思っている節があった。兎にも角にも金遣いが荒いのだ。
ふらっと何処かへ行ったと思ったら両手にいっぱい食材を抱え「今日は牛鍋だ」と宣言してみたり、「お前に似合うと思った」と言ってやれ腕時計だ靴だと並べてみせたりするのだ。
巌勝と食べる牛鍋は美味しかったし、腕時計や靴も縁壱を品良く引き立てた。何より満足げに微笑む巌勝に心が浮き立った。胸の奥で蝶がいっせいに羽ばたくような、そんな心地だ。
しかし、その金は全て縁壱が稼いだ金であるということは忘れてはならないことだった。
縁壱は資産家の家に産まれぬくぬくと生きてきた。だが、さすがに金が湧いては出てこないことは知っている。金というのは多くの場合、労働の対価として得るものだ。
しかし巌勝は金魚である。賢く美しいとはいえ、金魚なのである。
そういうわけだから、縁壱は巌勝に
「兄上。このお金は、この縁壱が稼いだものですよ」
と言ってみたのだ。
それに対して、いそいそと縁壱の財布を持って出かけようとしていた巌勝は
「うむ。励めよ」
と返した。
目を細め、薄らと微笑む巌勝はとても美しくて、やはり『お金』のことなんて分からない生き物のように思ってしまった。そうして縁壱はまた巌勝の浪費を許してしまう。こと巌勝が関わった時の縁壱はポンコツだった。
一応財布の中身を減らしておいて正解だった、と、縁壱は呻く。どうしたって巌勝には弱いのだ。
しかし、宵の口に帰ってきた巌勝が縁壱好みの辛口の日本酒を片手に「お前、財布に入れる金を減らしたな」と言ったのを聞いて決意した。やっぱり浪費を許すのは良くない、兄上のためにも、と心を鬼にした。
そうして縁壱はついに
「兄上は少々浪費しすぎる。今までは俺も兄上には好き放題させていたが、控えて頂きたい」
と宣言した。
「浪費?」
「ええ」
「しかし、衣食住には困っていないだろう。貯蓄もたんとある。私は知っているぞ」
巌勝はきょとんと首をかしげる。
「そういう問題ではないのです……」
「では、どういう問題なのだ?」
「俺の稼ぎは不安定だ。今は良くとも今後どうなるかは分からないのです。貯蓄も、あるにはありますが無限ではない。
兄上。
兄上が兄上の為に俺の金を遣うのは全く構わないのです。ですが、この縁壱のために金を遣うのだけでも控えて頂きたい」
縁壱の言葉に、巌勝は眉根を寄せる。
そうして、しばらく何かを考え込み「私が稼いだ金ならば、文句はないのだな」と低い声で訊いた。
巌勝は金魚である。自ら稼ぐことはできないだろう。
縁壱がぱちぱちと瞬きを繰り返していると「お前の稼ぎだがな……」と神妙な顔で巌勝が切り出した。
「半分ぐらいは、私の稼ぎのようなものではないか」
「………はあ?」
滅多なことでは動かない縁壱の顔の筋肉がひくりと動いた。
「ははあ。お前、さては私が何も知らぬと思っているな」と目を細める巌勝。
「お前は文筆家だろう」
「…………ええ」
「お前は私の事を小説に書いたな」
「………………気のせいでは?」
「しかも、この前は挿絵に私の絵を描いたな」
縁壱はまさか、と顔を歪めた。そんな珍しい縁壱の顔に、巌勝は満足げに鼻を鳴らす。
そして
「私の事を書いて得た金なのであれば、それは、半分、私の金だ」
と言い放った。
ツンと澄ました顔があんまり綺麗で、縁壱は思わず「ぐう」と呻いてしまう。
「とんだ屁理屈だ」
「屁理屈なものか」
でも、と巌勝は続ける。
「そうだな。そこまで言うなら。うむ。控えよう」
「……。……約束、ですよ」
「ああ。その代わり、お前は今までの倍、励め」
縁壱は
「ええ、勿論ですとも。励みます。兄上が仰るなら……兄上が今まで縁壱に買い与えて下さったものを兄上にお返しします」
と言った。
「それは、いい。お前はお前の欲しいものを買え。私は私が買いたいものを買った」
「俺は兄上の為に買いたい」
「…………そうか」
「そうですとも」
縁壱は顔を綻ばせる。
やはり兄上はすぐに分かってくれた。俺のことを尊重してくれる。嬉しい、嬉しい、嬉しい。
「でも、やはりお前の稼ぎの半分は私の稼ぎではないだろうか」
未練がましく上目遣いに巌勝が訊く。縁壱はサッと顔面から感情を消し去り「無」の顔で「それについてはまたいつか話しましょう」と早口で切り上げた。
その日の深夜。
縁壱がすっかり寝てしまった頃に巌勝は庭に出た。その日は月のない夜で、星星がよく見える夜だった。
片手に硬貨を一枚、弄びながら庭に植えられた蝋梅の香りを肺いっぱいに吸い込む。
冷えた夜に満ちる香りに酔いながら硬貨を弾き飛ばした。
硬貨は冷たい夜の中で宙を舞い、ひとりでに震えたかと思うと二つになった。音もなく土の上に落ちたかと思うと、打ち上げられた魚のように跳ね上がる。そうして二つが四つに、四つが八つに……泡のように増えていった。
――――まさに、あぶく銭だな。
巌勝はおはじきのように硬貨を弾いて遊んだ。チリチリと胸が焦げ付く音をかき消すように、チャランチャランと音をたてる。
金魚は富を運ぶ縁起の良い幸運の魚だ。そうであるからして、金魚である巌勝も富を運ぶ魚だった。
彼の手にかかれば勝手に銭など増えてゆく。
しかし、巌勝は縁壱が働いて銭を稼ぐのを好ましく思っていた。幸運の魚のいる縁壱の金運は笑えるぐらい良いのだが、それでも、縁壱が言葉を紡ぎ、それが銭に変わるのが好きだった。
同時に酷く羨ましかった。
その羨望を誤魔化し、あろうことか縁壱の稼ぎで己の自尊心を満たしている、という事実は目を背けたいものだった。
―――それでも、お前は私を慕うのだな。
巌勝はなんだか泣きたいような気持ちになり、身をよじって夜の空を泳いだ。蝋梅の香りのたち込める中、黒ぐろとした尾びれを翻す。
「兄上」
いつの間にか起きていた縁壱が縁側に出てうっとりと巌勝を見ていた。
「兄上」
縁壱はただ、名前を呼ぶ。
巌勝は縁壱のそばに行き、その額に唇をおとした。
「兄上。俺は頑張って稼ぎます。お金がたまったら旅行しましょう」
そこまで稼いだら褒めてくださいね、と縁壱は甘えた声を出す。
「お前なら、すぐだな」
巌勝は言った。
「兄上がいてくださるから、すぐです。兄上のためなら頑張れる」
縁壱が言った。
巌勝は、眩しそうに縁壱を見る。
無垢なる者。お前は誰よりも愛おしい。
きらきらと星星が煌めく。
巌勝は愛しい彼に幸運が来るように、と願いを込めて、彼の口を吸った。