(一)春の宵
「絶景でしたでしょう?」
と若い僧は言った。彼は縁壱の活動範囲下の寺の者だった。
「春の眺めは値千金と言いますが、それじゃあとても足りはしませんよ。万金、万々金……そうは思いませんか。
もう日が西に傾いてしまって、雲が棚びくのと夕暮れ時の茜色に輝く桜は、何より素晴らしい」
桜の森に思いを馳せているのだろう。彼はくふくふと笑う。
「ええ。確かに絶景でした」
巌勝は言い、縁壱はこくりと頷いた。
花見はもともと縁壱が言い出したことだった。月明かりのもとで輝く桜が美しかったのだそうだ。風に合わせて波のようにうねる花びらは宵闇いっぱいに銀色の光を明滅させる。この美しさを分かち合いたい、すっかり散ってしまう前に。縁壱は巌勝にそう言った。
それをたまたま聞いていたのが巌勝の私邸に招かれていた風柱だった。
彼らは互いの弟子を連れての交流試合をおこなっていた。風柱は俺のことを誘わないとは何事だと冗談混じりに詰め寄り、折角だから皆で行こうと提案した。
そうして思いがけず大所帯での花見となったのだ。
「ただ……桜を見に行ったのか、人を見に行ったのか、というような具合でして」
巌勝の言葉に若い僧は呵呵と笑った。
「それも花見の醍醐味でしょう」
「そうでしょうか」
「そう思っておれば、また楽しいものです」
縁壱はやや俯きがちにチラチラと巌勝を見ながら
「…兄上は……些かお疲れのご様子で……俺のもとでお休みになられては、と思い……」
と言う。尻すぼみになる言葉を繋ぐように巌勝は、お恥ずかしながら人混みというのがあまり得意ではないのです、と眉を下げて笑った。
おそらく彼は、彼の弟の訴えかけるような視線に気づいている。気づいた上で若い僧から視線を外さない。縁壱は正座した膝の上にのせた手を握りしめたり開いたり、落ち着かない様子だった。
若い僧は兄のことしか眼中にない縁壱の様子に笑いをこらえていた。
彼は定期的に縁壱に鬼狩りの礼として寺からの遣いで山菜を届けに来る。今回もその用で訪れている時に二人が花見から帰って来たのだ。
おそらく、縁壱は兄と二人きりになりたかったのだろう。それなのに巌勝はすぐに帰ろうとする僧を引き留めた。
僧は二人を見比べ眩しそうに目を細めた。そして、遠い過去を思って「私にも兄弟――弟がおりました」と口にする。
「もう随分前に死んじまいましたが……いつもにこにこと笑ってましてねえ。
頭の出来はちょいと悪かったが、私にとっては可愛い弟でしたよ。小さい頃は幼心に私が弟を助けてやるんだって思ってましたよ」
巌勝は「兄というものは、そういうものかもしれませんね」と言った。
「ええ。なのでお二人が共にいて、共に鬼狩りをしているというのが、なんだか嬉しくてですね」
「私は弟に導かれたようなものですが…。
そうですね。武家の産まれの双子が、この歳で互いの顔を見るなど滅多にないことですから」
「兄上と共にあれるおれは幸せ者です」
縁壱の言葉に巌勝はほんの一瞬だけ居心地の悪そうな顔をした。
「私の弟は体が弱かったものですから、もとより同じように歳を重ねることは叶いませんでした。だから、優しくしてやりたかった……」
巌勝の目を覗き込み僧は言う。
「巌勝さまも、お分かりでしょう。
――同じ、兄として」
巌勝はピクリと口の端を痙攣させた。それに気付く者はいなかった。
「独楽で遊ばしてやりたかったんですよ」
ぽつりと落ちた僧の言葉に縁壱ははっとした様子で彼の顔を見つめる。そして懐のあたり――そこにある何かをぎゅうと掴んだ。何かに縋っているようだった。
花見がしたいと誘ったその言葉に下心は全くなかったという訳ではない。美しい桜を見て、共に過ごしたかった。その後に甘やかに睦言を交わしあえたら幸せだろうと思った。
しかし、おそらく桜を見たいと巌勝に言った時、彼は二人きりで見たいという縁壱の望みを分かっていただろう。それなのにするりと躱された。
他の仲間たちと桜を見たいのかもしれないと思ったものの、桜の山に行ったら行ったで彼らとは一歩引いたところで一人ぽつんと花見をしているではないか。
縁壱が近寄り「兄上」と声をかけると、ほんの少し驚いた様子だった。
ざぁ、と風が吹き、縁壱の痛みうねった髪が顔にかかった。巌勝の髪もまた風に舞っている。たっぷりとした黒髪が波打つ様に縁壱は目を細める。
―――俺とはなんと違うのだろう。
胸の奥に広がるざわざわとした感覚に奥歯を噛みしめた。まるで蝶が羽ばたいているかのようなざわめきは、しかし必ずしも不快ではない。
「お前も、向こうに行っておいで」
巌勝はそう殊更おだやかな声で言う。そういう声を出せば自分は言うことを聞くと思っているのだろう、と思った。
縁壱の髪に絡んだ花びらを取る巌勝の手を取る。
「帰りに私の屋敷にいらしてください」
「何故だ?」
「……お疲れの、ようでしたから」
再びざぁ、と風が吹いた。
お前に気を遣わせてしまったか、と巌勝が呟く。違うのです、違うのです、ただ同じ時を共に過ごしていたいだけなのです。縁壱は言い募った。巌勝はふいと視線をそらして、お前はそういう奴だよな、と言った。その顔は寂しそうに見えた。
思わず顔を近づけ唇を重ねようとしたら人差し指で止められた。
縁壱の私邸に到着すれば、巌勝はたまたま来ていた若い僧をテキパキともてなし始めてしまう。二人を見てすぐに帰ろうとした僧を引き留めたその目的は他にあるように思えてならなかった。
僧を見送った後、縁壱はようやく二人きりになれたとばかりに後ろから抱きしめた。首筋に顔をうずめ「おれは鬱陶しいですか」と拗ねて見せる。
巌勝は「一人になりたい時もある」と言った。
「では、もうお帰りに? こちらにお泊りになっては?」
そう言いながら耳の裏に唇を寄せる。ぴくりと僅かに巌勝の体が跳ねるのを見逃さない。
耳の形をなぞるように唇を滑らせ、ふちを食む。巌勝の手が体にまわっている縁壱の手を掴み咎めるように爪が立てられる。チクリとした痛みがじんわりとした熱を生み縁壱を苛ませた。
「お前は少し遠くでの任務があると言っていただろう。明日の朝には発つのではないか?」
「ええ、ええ。ですから、今宵は兄上と共にいたい」
巌勝はやがて諦めたように息をつき「数少ないお前のわがままだ。付き合ってやる」と言った。そして縁壱に向き直ると唇を合わせ「お前が望むから」と言い訳がましく口にする。
「兄上は望んでいないと?」
「何を言わせたい」
「恥ずかしいというのなら、言葉にせずとも構いません。俺には言葉よりも雄弁に語ってくださるのが“視える”ので」
「……恥知らず」
眉間に皺を寄せ頬を僅かに紅潮させる姿が愛おしかった。