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月を刻み藤を宿す


 縁壱がタトゥーを入れたのは決して気まぐれでも若気の至りでもない。強いて言うならば強い衝動があった。親しい友人には「運命が扉を叩く音が聞こえたんだ」と言った。その友人は「ベートーベンか! その話はフィクションだぞ!」と元気良く教えてくれた。

 切っ掛けは大学生の時だ。  
 短期バイトで知り合った男。あまり人付き合いが得意ではなかった縁壱と珍しく気の合う同い年の青年だった。  
 彼には手首に真っ赤な風車のタトゥーがあった。まるで痣のようだと縁壱は思った。  
 プライベートで初めて会った時、就業中にはテーピングで隠していたワンポイントタトゥーを見つけたのだ。チラチラと見ていると、「イイだろ?」とニヤリ笑いかけられた。バレていたか、と縁壱は気まずく思った。  
「なんだか……君に、よく似合うと思って」  
嘘ではない。だから見ていたのだ。  
「ああ。俺も、生まれつき持っていたんじゃねえかって思うぐらいだ」  
カラカラと笑う彼に胸をなでおろす。  
 彼は縁壱にタトゥースタジオを見学しないかと誘った。知り合いが経営しているのだという。縁壱はほんの少しだけ躊躇ったが是と答えた。大げさに言えば、その風車のタトゥーに運命じみたものを感じていたのだ。

 数日後にタトゥースタジオに行くと知り合いだという彫師が縁壱を迎えてくれた。まんまるの瞳を輝かせて屈託なく笑う。愛嬌のある男だった。縁壱はひょっとこを思い出した。

 彫師は人懐こく、気の利く男だった。きょろきょろと落ち着かない縁壱に話しかけ、和ませてくれた。風車のタトゥーの彼は「こいつ、面白いやつなんだ」と縁壱に耳打ちする。縁壱な薄らと微笑み「うん」と頷いた。

「折角だから、これ、見てくださいよ」  
と彫師は縁壱にカタログを見せる。こんなデザインがあるんですよ、こんな場所に入れたりするんですよ。彫師の話は終わらない。縁壱はくるくると目を回しながら写真を見る。知らない世界がそこにあった。縁壱は圧倒されていた。

「これなんか、似合いそうだな」  
そう言って風車のタトゥーの彼から見せられたのは炎のタトゥーだ。それを見た瞬間、胸がざわついた。懐かしいような、同時に忌避したくなるような、そんな感情。それを彼に言うと「前世は炎に纏わる仕事だったんだ。神職とか」と言った。冗談を言っている顔ではなかった。  
「炎に纏わる神職って、どんな神職だろう」  
「さあ……なんか、こう……あるだろ?」  
なんかこう炎に纏わる神職が前世と言われた縁壱は何と言ったらいいか分からずに「そうだな」と言った。  
 ただ、顔に炎のタトゥーがあるのは、あまり良くない気がするな、と思った。左の額に炎のようなタトゥーを付けた自分の顔を思い浮かべたのだ。  
 それから、右の首から顎にかけて炎を燃え上がらせた顔を思い浮かべて、これはイイ気がすると思った。  
「この柄を、ここから、こう上に昇らせるのはどうだろう」  
右の鎖骨の上あたりから口の端を指で指し示す。  
 彼は、うーんと唸り、顔は難しいんじゃないか、と言った。そうだった、と縁壱は思い出す。なぜ当然のように顔に入れると思ったのだろう。縁壱は首を傾げる。  
「あと、なんか縁起が悪い気がする」  
「縁起が悪い?」  
「ああ。なんとなく、縁起が悪い」  
「でも、格好良いだろう?」  
食い下がる縁壱に彼は、お前みたいな普通の大学生が顔に炎のタトゥーなんて、と笑った。それもそうか、と残念に思ってカタログをめくる。

 すると、一つのデザインが縁壱の目に止まった。  
「……この、デザイン」  
「ああ、月のデザインですね」  
 それは満月に雲がかかったタトゥーだった。

 その時、縁壱の運命が扉を叩いた。ジャジャジャジャーンと交響曲が鳴り響き、ぐわんぐわんと頭がぐるぐると回転するようなめまいがする。

「これを、やってみたい」  
「え? このタトゥーを?」  
「うん」  
「お前が?」  
「うん」  
彫師も、風車のタトゥーの彼も、ぱちくりと瞬きを繰り返して縁壱を見た。  
「体のどこでもいい」  
どうしても、この満月が欲しくなってしまった。

 数日後、縁壱は本当にタトゥースタジオへ満月を彫りにきていた。  
「いやぁ、本当に予約してくれるなんて! いや!有り難いことですが」  
彫師はひひっと笑い「でも、場所は足の裏でいいんですか?」と訊いた。  
「ああ。足の裏なら目立たないだろう」  
「足の裏に彫るのは痛いですよ」  
「それでも構わない」  
むしろ、痛い方がいい。この身に月を刻むのであれば痛ければ痛い方が都合が宜しい。そんな風に思ったのだ。  
「すぐに消えちゃうかも」  
「それは………困る。が、頼む」  
縁壱にとって満月を刻んだという事実が何よりも大切だった。

 そうして最終確認をしながら月のタトゥーを足の裏に彫った。痛みは鋭く目の奥がチカチカとするようだった。  
 出来栄えは、それに堪えた甲斐があったというもので、足の裏を確認した縁壱は思わず顔を綻ばせた。  
「ありがとう。とても素敵だ。美しい」  
何度も何度も礼を言って、縁壱はスタジオを後にした。  
「他にも彫りたくなったら来てくださいよぉ!」  
彫師はいつものように屈託なく笑っていた。

 それからというもの、縁壱はことあるごとに満月を愛でてはムフフと笑う。  
 それはお守りのようなもので、おれには今満月が刻まれているんだぞと思うだけで頑張れる気がした。眠る時は身体を胎児のように折り畳み、そっと足裏の満月を撫でさすって穏やかな眠りについた。  
 しかし、二ヵ月もするとタトゥーは薄くなっていき、半年すると跡形もなくなくなってしまった。

 縁壱がもう一度タトゥースタジオを訪れると、彫師は「ありゃ、やっぱり消えちゃいましたか」と残念そうに言った。  
「残念だったが、それでも彫って良かった。とても幸せだった」  
縁壱が言う。お世辞でもなんでもない。彫師は最初、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしたが、すぐに「彫師冥利につきるってやつだ!」と破顔した。

「それで……予約の件だが」  
「ええ。今度は藤と月でしたっけ」  
その日は新しく耳の裏にタトゥーを入れる。紫色の藤を一房と、三日月だ。

「気に入りました? 月」  
そう訊く彫師に、縁壱は顔を綻ばせて「うん。どうやら俺は、月に恋しているみたいなんだ」と言った。

 以来、縁壱の耳の裏には藤と月のタトゥーがひっそりと隠れている。彼は耳の裏にそっと指を這わせ、ほう、と息をつくのだった。