LOVE ME DO
何か辛いことでもあったのだろう。
縁壱は帰ってくるなり巌勝を後ろから抱き締めた。まるで小さい子どもがするような、ぎゅっと無遠慮な力で。
着流し姿で縁側に腰掛け読書をしていた巌勝はされるがままだった。縁壱の身体にほんの少しだけ身を委ね本を読む。背に感じるのは温かい彼の体温だ。
初夏の夜の風はまだ冷たい。巌勝は頬を撫でる夜風に目を細め、再び視線を本にうつした。
しばらくすると縁壱の手がするりと本を持つ巌勝の腕を滑る。肘から手首にかけて手のひらを這わせ、手首を指先でするすると撫で、指の股を擽る。そうして最後にはぱたんと本を閉じさせた。
「縁壱」と巌勝が咎める。
「兄上」と縁壱が求める。
「本を読んでいたんだ」
「誰の?」
「新進気鋭の若手作家」
「俺以外の人間が書いた本だ」
「ふふ……気になるのか」
「気になりますとも」
「嘘つき。お前はそんなこと気にしない」
「いいえ。俺は嫉妬深いのです。兄上は知らないだけなのです」
ぐりぐりと頭を巌勝の肩に押し付ける様はまるでむずがる子どものようだった。
巌勝は腹にまわった縁壱の腕を、とんとん、と叩く。
とんとん、とんとん。
とん。とん。
次に軽く体を揺すってみる。揺りかごのように。
すると縁壱が「兄上」と甘えた声を出して巌勝の首筋にちゅ、と唇を落とした。擽ったそうにする巌勝を上目遣いに見てから縁壱はもう一度唇を落とす。そして耳の後ろにもう一度。熱っぽい声で「兄上」と呼び、もぞもぞと動き腹に回した手の力を強める。
「こら」
と再度、巌勝が咎めた。
その声に縁壱はぴくりと反応してから、躊躇いがちに小さな声で
「……今日は、パーティだったんです。色んな人が来て、色んなことを言って、色んな顔をして――――俺を見る」
と言った。
ぎゅう、と更に腕に力が加わった。骨が折れてしまいそうだと巌勝は思った。
「――――皆が俺に何を求めているのか、俺には解りません。
俺は他の人のようにはなれないし、皆が期待してる何かにもなれない……」
巌勝は「それで?」と言う。
「俺は【あなたの弟】でいい。それで十分です」
だめですか、と縁壱は甘えた。
駄目か、と問われれば、駄目ではない。だがしかし、その甘くドロリとした感情は執着か――或いは依存か。
巌勝はぞわりと鳥肌がたった。その甘さはきっと麻薬のように巌勝と縁壱を蝕むだろう。そして、これは確信なのだが、一度味わえば巌勝はきっと抗えないたぐいのものだ。
夜風が再び巌勝の頬を撫でる。
目をつむり、少し考える。
そして、「それでは、私は【お前の兄】でなくてはならなくなってしまうだろう」と言った。
「……嫌なのですか?」
「他にも色々あるじゃないか。例えば、金魚と飼い主、とか」
くく、と巌勝は嗤ってみせる。
縁壱は眉根を寄せて「俺の手の中におさまってくれない癖に、よく言う」と低い声を出した。
「【兄】で【俺の金魚】で――【恋人】、は、いかがです?」
「うーん。欲張りすぎだな」
「じゃあ【兄】で【恋人】」
「お前の【金魚】で少し【兄】」
「嫌です。やっぱり【兄】で【俺の金魚】で【恋人】がいい」
「恋人はいらない」
「恋人は必要です」
巌勝は今度こそ本を縁側に置き、いつの間にか弾むような声を出している縁壱に向き直って顔を覗き込む。
水の中に居るみたいに、なるべく瞬きをせずに、じっと見つめた。
「『人を好くということは愉しいことでございます』。この本にそうあった。言ってみてくれないか」
私には恋が解らないからお前の口から聞いてみたい、と加える。
「えっと。人を好くということは……」
「なんだ。照れているのか。一息に言ってしまえ」
「人を好くということは……」
「じれったい。文筆家のくせに。人を好くということは。ほら、続きは」
「………」
「黙ってしまうのか?」
「人を好くということは……えっと、人間の持つ一等すぐれた感情でございます……」
「こら。勝手に言葉を作るな」
縁壱は顔を耳まで赤くさせ、勘弁してくださいと言った。
少し胸がすくような思いがした。
巌勝は上機嫌になって縁壱の耳元に唇を寄せ
「人を好くということは、愉しいことでございます」
と囁く。
「兄上は、俺をからかっているのですか」
「からかうなど、とんでもない」
「…………」
「……………怒るな、怒るな。悪かったよ」
「………兄上」
「……」
「………兄上。兄上。兄上」
「兄上」
「わかった。わかったから……」
「目は開いていて」
「ん」
「口も」
「……」
「いいこ」
「怖がらないで。気持ちの良いことをするだけだから」
「………うそつき。お前は、うそつきだ」
「嘘ではありません。……ほら。ここ。気持ち良いですね」
「……うそつき」
「兄上、声、とまらない? 可愛いですね」
「俺が兄上の一番欲しいもの差し上げます」
「ちゃんと、受け取ってくださいね」
「気持ちいいですね」
「ここも、ここも、それからここも。兄上の気持ちいいところ、全部知っていますよ」
「兄上。『人を好くということは、愉しいことでございます』ね」
縁壱は幸せそうに言った。