NOVEL short(1000〜5000)

蜜鏡


 夜の帳も下りて弓張月が寝静まった街を照らす頃。  
 縁壱は鏡の中にいる“彼”にほう、と息をついて鏡像に腕を伸ばしそっと頬に触れる。指先から伝わるのはガラスの冷たさばかりであるが、それでも縁壱の体はじわりじわりと火照ってゆく。



 最初は出来心だった。  
 数ヶ月前に巌勝が友人と旅行で不在だった連休のある日、彼の制服を着てみたのだ。なんとなく。出来心としか言いようがない。二人は通う高校が違ったから、なんとなく、本当になんとなく袖を通してみたのだ。  
 そして姿見を覗くとそこにいたのは“兄”によく似た姿だった。こんなにも我ら兄弟は似通っていただろうか、と縁壱自身が驚くほどであった。今生においては天から痣を与えられずに生まれ落ちたゆえだろうか。

 その日以来、縁壱はこの遊びが止められない。


 群雄割拠の乱世にて鬼を狩っていた時代から数百年。再び双子の兄と共に同じ女の腹から産まれ出た。  
 かつて遅効性の毒のようにゆっくりと縁壱の心臓を蝕んだ兄への恋心をそっくりそのまま魂に宿したままに生を受けたのは呪いなのだろうか。  
 兄に過去の記憶があるのかは判らない。判らないから告げられなかった。そうして胸裏に燻る想いを秘めたまま生きると決めた。

 しかし中学生になる頃に、かつては見ることの叶わなかったみずみずしい十五ばかりの巌勝の姿に未発達だったはずの縁壱の身体が欲を顕した。  
 彼の夢を見て精通を迎えたのだ。  
 それからというもの何度も夢を見た。十四、五の幼さの残る兄が縁壱を抱きしめその手で絶頂に導く夢。共に鬼を狩っていた時分の姿の兄が縁壱に跨り淫らに腰を振って身悶える夢。愛し合う恋人のように指を絡めて手を握りながら共に快楽に身を任せる夢。  
「愛しています」  
と縁壱が言えば、  
「私も、誰よりもお前を愛している」  
と言ってくれる。  
 絶頂を前に震える腹を撫で、ピンとたちあがった乳首を吸い、とろとろと白濁を漏らす陰茎を扱く。  
「気持ちいい……縁壱……もっと、よくしてくれ……兄さんに……お前をくれ……」  
頬を桜色に染めてうわ事のように言う巌勝はあまりに淫らで艶めかしく、目眩がした。その夢はほとんど裏切りに近いと解っていても縁壱を酔わせる。次第に縁壱は夢を見ること厭わなくなっていた。

 しかし、今の姿の兄を無理やり手篭めにして「私はすべて縁壱のものだ」と言わせる夢を見た時、己の中の獣が今にも牙を剥いて体を乗っ取り兄を襲ってしまいそうで恐ろしくなった。  
「早く俺のことを思い出して」  
と言って涙を流し過ぎた快楽に呻く巌勝に精を注いだ瞬間に感じたのは、確かな征服欲と嗜虐欲。己の中にそんな感情があるなど知らなかった――否、知りたくなかった。  
 だから高校は別の学校に入学した。


 巌勝の制服を着た縁壱は鏡をうっとりと眺め、それから甘ったるい声で  
「縁壱」  
と名前を呼ぶ。  
「縁壱。縁壱……」  
まるで巌勝が己を呼んでいるかのような錯覚。紛い物――ましてやその正体が己であると知っていてなお仄暗い喜びが身体中を痺れさせる。  
「縁壱。あいしてる。私の弟」  
まるでままごとのように、巌勝に似た鏡像に欲しい言葉を言わせた。  
「今度はずっと一緒にいよう」  
どんなに虚しくとも止められない秘密の遊びである。


 縁壱は目を閉じコツンと姿見に額をつけた。瞼の裏に浮かぶのは“本物の”兄の姿。兄が縁壱を抱きしめて「ずっと一緒だ」「愛する私の弟」と言う幻想だ。  
 はあ、と熱い息をもらし、ふるりと身震いをする。欲を兆した己の身体を嘲笑いながら、冷たい鏡にぴとりと体を預けた。ズリ、と下腹部を押し付ける鈍い痛みとともに快感が背を駆け上る。  
「ん。ん……」  
次第に抑えがきれなくなり縁壱は一心不乱に己を慰めた。  
 ズボンを下着ごとずり下げ勃ち上がり先走りを溢す陰茎を取り出し軽く扱きあげる。そして鏡に押し付け腰を振る。鏡の冷たさにびくんと肩をはねさせながらも「兄上、兄上」と愛しい人を呼び、袖口に鼻先を埋める。  
 鏡像を一瞥すると、陰茎同士をすり合わせているかのようで興奮した。  
「兄上、気持ちいい?」  
答える者もいないのに、ふざけて問う。  
「俺は、気持ちいいよ」  
――本当は、あなたの中に入りたいけれど。  
 その言葉は、どうしたって口からは出てこなかった。

 鏡の中には虚しく自慰にふける男がいる。巌勝とは似ても似つかない顔。ああ、彼ならどんな顔をするのだろうか。あの清廉で潔癖な兄もこんな顔をして快楽に身を任せることがあるのだろうか。  
 縁壱はギュッと目をつむってますます激しく擦付け、びゅく、びゅく、と断続的に白濁を鏡に吐き出す。  
 へたへたと座り込むと、ぼうっと放心した鏡像の顔に縁壱の精が滴る。  
「……ふふ、兄上、お顔に付いてしまってますよ」

 可愛い、と呟いてから、縁壱は己の悍ましさにぽろぽろと涙を流した。  
 もはや何の涙かさえも解らない。

 縁壱は迷子の子供のように蹲るしかなかった。