NOVEL short(1000〜5000)

恋煩


 春の終わりの雨は優しい。

「傘を」と言う女に  
「春雨だ。濡れて帰る」と一言。  
 縁壱は雨を浴びて帰った。

 頬を濡らす雨に目を細める。  
 雨音が鼓膜を震わせ独特の匂いが鼻を刺激した。ぱらぱら、ぱしゃぱしゃ、ぴちゃんぴちゃん。足元に跳ね返る雨粒。頬に感じる雨の日の湿った空気。  
 外の世界が縁壱の五感を刺激する。  
「でも、肩が……」  
女が言い募るのを無視して歩き始めた。――俺が入ったらお前の方こそ濡れてしまうだろうに。  
 女が慌てて縁壱についてくるのを背に感じながら縁壱は歩みを遅めた。  
 いつだったか、巌勝が彼女のように傘の中に入れてくれた。大男二人ではどうしたって体の半分も入らないのに、傘を傾けて「濡れてしまうだろう」と言う。濡れてしまうことを口実にぴったりとくっついた。二人して肩どころか体半分を濡らして、巌勝が顔をしかめて、でも、仕方ないな、と呆れたように縁壱を見て苦笑する。  
 それが嬉しかったのだ。


「あら」と女が声をあげた。  
「からす。縁壱さまのからすが飛んできた」  
縁壱が見上げれば、足に文を括り付けた鎹鴉がいた。縁壱が手をのばすと鴉はけたたましく鳴き、文を落とし頭上高くを旋回する。  
「無礼なからす」  
女は呟き文を拾い縁壱に渡した。雨に濡れた文は少々読みづらい。

 文の差出人は煉獄だった。

 縁壱が鬼狩りに追放されてから数年。彼は各地を放浪しながら鬼を狩ってまわっている。  
 鬼舞辻無惨と――鬼となった兄を探す、あてどのない旅だ。

「からすは何と言ってますの?」
「ここから北へいった先の■■という寺の側の山に手を焼いている鬼がいる、と。それから俺が連れている女――お前のことだな――お前は俺の妻か、と…」
「あはは、可笑しいこと!」
きゃらきゃらと女は笑った。

 女は春を売る女だった。  
 鬼に食われそうになっていたところを縁壱が助けた。それ以来、女は何かと縁壱の身の回りの世話をしようとする。  
 縁壱は断ったが「助けてもらった礼がしたい」と女は譲らなかった。そのため縁壱は自由にさせることにしたのだ。それからもうふた月になる。

 女と男が二人きりで旅をしている。  
 それが他人からどう見えるかなどということは縁壱にはどうでも良いことだった。

「それから――」
「それから?」
「――惨めではないか、と」
「みじめ? 何が?」
縁壱は文をぎゅっと握る。女は心配そうに縁壱を見た。
「俺が――決して叶わぬ恋をしているから」
「あら、まあ!」
女は憤慨したようにキッと目を釣り上げ「無礼だわ!」と言った。
「ひとの恋を惨めだなんて言う人は、恋をしたことがないのよ。確かに惨めな気持ちになる恋はあっても、恋するひとにそれを言うの? 縁壱さまに恋を諦めさせようとして意地悪を言ってるのね」

 縁壱は女の言葉に黙りこくってしまった。真実、煉獄は縁壱の恋を諦めさせようとしている。しかしそれは意地悪などではないだろう。縁壱を心から心配しての言葉に違いないのだ。

「この文を送った男は俺の友だ。悪く言わないでくれ」
縁壱が言うと女はしゅるしゅると勢いを失わせ、不貞腐れたように「ちぇっ!」と地面をを蹴る。泥が飛び散り女は「きゃあ」と悲鳴を上げた。

 共に旅をする女を妻にするならば、早く『恋』を捨ててしまいなさい。『恋』を捨てられぬのであれば、女と共に旅をするのはよしなさい。
 煉獄はそう縁壱を諭していた。

「俺はお前を娶るつもりはないのだが、お前はそれでよいのだな」
縁壱は女に訊く。
「今更なんです? あたしは、縁壱さまが決してあたしに惚れないから――あたしのことを抱かないからあなたのことをお助けしてるんですよ」
女は笑い飛ばして
「でも、そのせいで縁壱さまに『恋を諦めろ』って言うひとがいるなら、あたし次の村でさよならする」と言った。
「また、あなた、一人ぽっちになっちゃうけど……きっと次の“縁”がめぐってくるわよ」
縁壱さま。あなたのお名前だけ、もじを覚えたのよ。女はそう言って嬉しそうに笑う。

――――縁壱。お前の名前は“縁”を“壱”番に、という願いのこめられた名前だ。
――――“縁”。ほら、指でなぞって……。

 脳裏に思い出されるのは兄が縁壱の手を取り、名を教えてくれた日の記憶だった。

「………惨めだと知っている。それでも、俺は、愛したい」
 ぽつりと縁壱は言葉をこぼす。

 優しい雨にうたれ、文は次第に読めなくなっていった。