地獄の季節
男は真夜中に浜辺を歩いていた。真っ白な満月がぽっかりと浮かんでいて、少し肌寒い夜だった。
立ち止まって月光が海に反射しているのを見つめ、また歩き出す。
そろそろ旅館に戻らないと家族が心配する。そう思ったがここから離れ難かった。
男は家族旅行に来ていた。
有名な観光地である神社を中心に、門前町を散策し、海の幸を堪能して、温泉に入って、妻と子と川の字になって眠る。完璧な家族旅行だった。
しかし、旅行先を海の見える場所にした理由は誰にも話していない。
昔から男は海の夢を見る。
夢の中で、男は『誰か』になっていた。その『誰か』は隣りにいる『美しい人』に話しかける。
「おれは海を初めて見るんです」
するとその『美しい人』は
「私も海を見るのは初めてだ」
と言っていた。
『誰か』は『美しい人』と同じなのが嬉しくて、ちょっとだけ俯いて微笑む。
『美しい人』はそんな『誰か』の様子には気付かずに、『誰か』の名を呼んで微笑むのだ。
「なあ。■■。見つけた」
「何をです」
「永遠」
「永遠?」
「去ってしまった海――太陽もろとも去ってしまった海のことだ。
―――見てみろ、太陽が海に溶け合っているだろう」
その横顔は茜色に染まり、夢見るような幸福に満ちた顔をしていた。
そんな夢だ。
男は繰り返し繰り返し、その夢を見ては涙が止まらなくなる。胸が苦しくなって泣き叫びたいような気持ちになるのだ。これが最後だった。最後に見た姿だったのだ、と『誰か』の叫びが聞こえる。
それが恋だと知ったのはつい最近のことだった。きっと夢の中の『誰か』も『美しい人』に恋をしていたのだと思う。
男は目覚めてしまうとその『美しい人』の面影を忘れてしまう。覚えているのは、その声と触れた肌の温かさと感触。その僅かな記憶だけで、己を慰めたことすらある。
忘れがたい人。しかし知り得ぬ人。
その『美しい人』を探すために海の見える場所に来た。
男はふらふらと浜辺を歩く。
ふと、波打ち際にボタンが落ちているのを見つけた。それを拾って掲げてみる。
満月にピッタリと合わせたそれをポケットに容れて、また歩き出した。
夢の中で、またあの『美しい人』と――『永遠』に焦がれる月の似合う彼と出会うことを夢見て、男は旅館に向かった。