くちづけ
寝る前になって巌勝が縁壱の布団の前にちょこんと座った。身体の大きさからすると“ちょこん”というよりは“ででん”といった具合だが。
今までは庭に出て夜空を眺めたり、庭の草木に鼻面を突っ込んで夜露に濡れてみせたり、自由気ままに夜を泳いでいたというのに。縁壱はそんな巌勝の様子を見るのが好きだった。それと同時に、普段と違う彼の様子にほんの少し訝しむ。訊けば、夜風が生ぬるく気持ちが悪いとのこと。
縁壱が「確かに兄上の手の方がひんやりとしていますし」と言うと、巌勝は「冷たいほうが気持ちがいいのか?」と手のひらを首筋に合わせる。
「縁壱。お前の身体は私には熱いな。まるで太陽みたいだ」
「お嫌いですか?」
「私はそんじょそこらの金魚とは違うので、お前の身体の熱ていどでは死にはしない」
フフンと巌勝は得意げにしていた。
そして、巌勝は縁壱の首から手を離すとニヤリと笑って
「しかし、お前は私のことを冷たいと言うがな、“のめっとしていて、それが非常に良い具合”なのだろう」と言った。
「へ?」
縁壱が目をまんまるにさせると、巌勝は歌うように
「“金魚は私の足の太ももの上にのった。そしてお腹の上をちょろちょろと泳ぐ”。“背中を昇っていった金魚はやがて私の髪の中にもぐりこみ、かと思えば顔の上を泳いでいって、私の唇でとまるのだ”」と口にした。
それは、ついこの前発売になった某誌に掲載された縁壱の言葉たちであった。
焦ったのは縁壱で、巌勝の言葉を聞くなり顔を赤らめて視線を彷徨かせる。
「あ、あにうえ……それは、その」
「お前には恥じらいというものがない。こんなに赤裸々に書きおって」
「も、申し訳ありません…」
「反省しているのなら、宜しい」
やや不遜な口調で巌勝は言う。
それから、縁壱ににじり寄ると
「縁壱、してくれ」
とねだった。
「キスを?」
「ああ。……興が乗った。それに、はじめての時は口を食べるなど、酔狂だと思ったのだがな。案外、悪くない」
「俺とのキスはお好きですか」
「………悪くないだけだ」
縁壱は唇をへの字にさせる巌勝の腕をひっぱり、胡座をかいた己の足に跨るように座らせる。
巌勝は縁壱を見下ろし、目を細めた。
「たまに、お前は“金魚を丸呑みしてしまいそうで恐ろしくなる”そうだな」
「ええ。兄上があんまり一生懸命小さいお口を開いてくださるから。おれもつられて口を開いてしまうんです」
「口をすぼめていればよいのだ」
「ですが……兄上とのキスは芳しく…ついつい…」
コツンと額と額とが合わさる。巌勝が縁壱の後頭部を抑えて、ちゅ、と触れるだけのキスをした。
「芳しかったか?」
「……あまり分かりませんでした」
「なんだ。分からなかったのか」
「申し訳ございません……では、もう一度」
今度は縁壱が巌勝の頭を引き寄せた。
くちゅ、と控えめな水音。しゅるりと縁壱は巌勝の髪を下ろす。
「やはり、兄上とキスをすると、芳しいのです」
「おかしなやつ。金魚なんて、生臭いだけだろうに」
「いいえ。空と水の匂いです」
「分からないな。もう一遍」
ぴちゃぴちゃと音が鳴る。
「分かりました?」
「……分からない」
「ご自身では分からないものなのですね」
「………もしも、お前が私を丸呑みにしてしまったら、お前の腹の中を泳いで、またお前の口もとに戻ってくるから」
「それは、くすぐったそうだ」
「ふふ……そうかもしれないな」
縁壱は巌勝を引き寄せて密着する。巌勝の身体はひんやりとしていて気持ちが良かった。
兄上、と呼ぶと、うん、と返事がある。
唇を合わせると、やっぱり空と水の匂いがした。