金魚のしっぽ
家に帰ったら、そこに居ると思っていたひとの姿が見えない。平生なら縁側に座って読書をするか、はたまた小さな庭にいるか、居間のちゃぶ台でお茶を飲んでいるかであるというのに。
縁壱は肩を落としながらスニーカーを脱ぐ。
「ただいま戻りました」
と一応口にして、余計にしょんぼりとしてしまった。
誰もいない家は寂しい。
電気もつけないまま、縁側に腰掛けため息をついた。今日はお土産もあったのに、と、抱えていた荷物を隣に置いていじける。
「早く帰ってきてください。縁壱は寂しいです」
わざと甘えたっぽく口にしてみたら、なんだか気恥ずかしくなってしまった。
縁壱は顔を真っ赤に染めながらきょろきょろと見回す。
誰もいない。
ため息を一つ落として、ごろんと縁側に転がりふて寝をきめた。
ふて寝というのはたいてい起きるとびっくりするぐらい時間が経っているものだ。縁壱もその例にもれず、「風邪をひくぞ」と頬をペチペチと叩く待ち人――――巌勝の声で目が覚めたら夜になっていた。慌てて起き上がるとよだれが垂れて見兼ねた巌勝に「顔を洗ってきなさい」と言われてしまう。
縁壱は「お恥ずかしところをお見せしました」と顔を洗い頭をしゃんとさせた。鏡に映る顔はだらしなくへにょりと緩んでいたので、パシリと両頬を打つ。
帰ってきてくれて嬉しい。そんなことを言ったらまた呆れられてしまうだろうから。
「今日は、メダカを買ってきたのです」
巌勝と縁側で月見酒をしていた縁壱はそう言った。お気づきかと思うがそこにあるのがそうです。指し示された小さな水槽の中にはメダカが一尾、すいすいと泳いでいた。
それを横目でチラリと見た巌勝は「ああ」と微笑み「メダカは良いものだな」と言った。
「兄上の同居人として……寂しくないよう買い求めたのですが…」
そこで縁壱は一旦言葉を区切り、こてんと頭を巌勝の肩に預ける。
「私の居ぬ間に出かけてしまうのなら、要らぬものでしたね」
恨みがましいその声をものともせずに巌勝は「お前は優しいな。こんな畜生の私にも慈悲を与えるのだから」と言って手にした盃に月を映して遊んでいた。
「畜生? ご自身のことをそんなふうに仰るのはやめてほしい」
「事実だろう。私は金魚だ」
「ええ。あなたは金魚だ。そして私の兄上でもある」
埒が明かない、とばかりに巌勝は一気に酒を煽った。
「だが、やはりメダカは有り難いな。感謝する。あいつらは旨いのだ」
「旨い? 食べてしまうんですか?」
「ああ。尾びれのところをちょっとだけ噛むのだ。そうするとな、ぬめぬめの部分が旨いのだ。甘くはないのだが少し苦味があって癖になる味をしている。以前食べたことがある」
得意げに巌勝は話した。
「兄上の尾っぽも、ぬめぬめがありますか?」
「ああ。簡単に作れる」
ふーん、と縁壱は小首を傾げる。
――――ふーん。兄上はメダカの尾っぽを食べるのか。ぬめぬめが美味しい、と…………。この縁壱が用意した食事ではなくメダカの……ふーん。そうなんだ。
――――ふーん…………。
「私も食べたいです」
「うん?」
「私も、兄上がメダカにしたように、兄上の尾っぽを食べたい」
縁壱の言葉にむむ、と嫌そうな顔を作り、それからツンと澄まし顔で巌勝は「ありえないな」とそっけなく返した。
「だって、私はお前にまる飲みにされてしまいそうではないか」
「心配ありません。尾っぽの先だけ口に含みます。舌先でぬめぬめだけ舐めとってしまいます。兄上は、一生懸命、ぬめぬめを出して私に与えてくださいませ。もう出なくなってしまったら、尾を噛んでお知らせ致しますから……」
「む……それでは、私だけが疲れる。それに、尾びれを噛まれると背なかがビリビリして、不快だ」
唇をへの字にさせて今にもそっぽを向いてしまいそうな巌勝に、縁壱は慌てて「優しく……いっとう優しくしますから」と加えた。
「そういう問題ではない」
「では、口ではなく指で致します。根本から指で扱いて、兄上が出してくれたものを掬って舐めます。……ちょっと、手間ですが、兄上が協力してくれれば…」
「くどい」
取り付く島もない巌勝に、縁壱はムッとした。そして巌勝に手を伸ばし後頭部を片手でおさえて顔を近づける。額と額をコツンと合わせて見つめると、戸惑ったように巌勝の瞳が彷徨いた。
「兄上」
と縁壱が囁き、もう片方の手で巌勝の手を絡めとる。
そして指のいっぽんいっぽんを順番に指先でたどる。最後に小指の先っぽ、切り揃えられた爪と指の間をかりかりと引っ掻いた。そしてまた小指の形を確かめるように上へ下へとなぞる。
ぴくりと巌勝の指が跳ねた。それをおさえるようにぐっ、と指の股に人差し指を差し込むと「おい」と咎めるような声があがった。
「そんなに食べたいのか」
「はい」
「なら、好きにしろ。でも、痛くするなよ」
縁壱は顔を綻ばせた。「絶対、約束ですよ」と何度も言った。
翌朝、縁壱は朝食の味噌汁を作りながら巌勝の尾っぽのぬめぬめの味を思い出していた。存外、味がしなかったな、むしろ生臭さが勝っていたな、と苦笑いをする。
それでも、思い出すだけで口の中には唾液がどんどん溜まっていったので、また来月にでも食べさせてもらおうと思うのだった。