恋する男の肖像
炭治郎が禰豆子と共にI県K市の神社に参拝していたときの事だ。
八重咲きの藤の下に立つ一人の男の後ろ姿が目に入った。白髪交じりの髪を後頭部でひとくくりにしたその男は腕に扁平な荷物を抱えている。その後ろ姿からは幸せそうな――それでいて言葉にできぬ、いまだかつて嗅いだことのない不思議な匂いがした。
炭治郎はすんすんともう一度香りをかぐ。やはり、不思議な匂いがする。まるでこの世のものではないような――背筋のこおるような至上の香り。
「あら、あの方。炭吉さんじゃないかしら?」
禰豆子がその男を見て言う。
「……え?」
「ほら……あの後ろ姿。小さい頃に会った炭吉さんそっくり」
確かにその男は遠縁にあたる竈門炭吉であった。
抱えていた荷物を風呂敷にしまった炭吉は炭治郎と禰豆子に気がつき、快活な笑顔を浮かべて思わぬ再会を喜んだ。
「久しぶりだなあ」「何年振りだい?」「二人とも大きくなって」「他の兄弟たちはどうしているんだ」「すみれはもう結婚してしまってね」
炭吉の話は尽きない。全身で喜びを表すように頬を紅くさせて二人を質問責めにする。まるで少年のようだった。禰豆子もまた炭吉との再会にいたく喜び、一日ともにいた。炭治郎も遠縁の炭吉との再会を喜んだのだが、風呂敷から立ち昇る得も言われぬ香りにくらくらとしてしまう。
そしてその夜、炭治郎と禰豆子は炭吉と共に東京行きの列車に乗った。二人は東京に住む友人の元を訪ねる心算であったのだが、炭吉もまた、東京に用事があったのだという。終始にこにこと笑みを絶やさぬ炭吉は炭治郎と禰豆子に向き合うように座って「まったく偶然というのは面白いね」と笑う。
「会えて嬉しかったです」
炭治郎も笑う。これは本心だ。
すると、突然、炭吉は
「気になるかい?」
と風呂敷から荷物を――藤の下で彼が抱えていた扁平な荷物を取り出した。
「炭治郎。君は随分と気にしていたようだから」
炭吉の言葉に心臓が跳ねる。
「見せてくれるんですか」
炭治郎は言った。
「勿論だよ」
しゅるりと風呂敷の中から現れたのは精巧な作りの押絵であった。
炭治郎はむせ返るような香り――至上の香りに背筋をこおらせた。
「きれい……おそろしいほど」
禰豆子が囁く。
その通りだった。その絵は恐ろしいほど美しい。
満月の下で、二人の男が寄り添っている押絵。一人は茜色の羽織の白髪の老人。もう一人は瑞々しい若武者。若武者は老人のすぐ後ろから背にもたれるようにして立ち、肩に手を置いている。
精巧に作られた押絵だ。老人の顔に深く刻まれている皺、風になびく白髪の一本一本の精巧さ。若武者のみどりの黒髪と伏せた瞼を囲う睫毛の艶やかさ。老人の肩に置かれた手の指先に乗った爪は角度によって紫色に見える。
どれも美しいのだ。
二人が絵に見入っていると、炭吉は「これで見てほしいんだ」と遠眼鏡を渡す。それは随分と古めかしい遠眼鏡であった。炭治郎は物珍しそうに遠眼鏡をくるくると見回し、そして言われるがまま遠眼鏡で押絵を見る。
果たして遠眼鏡で見た世界にいたのは、悩ましげな吐息を漏らす若武者と幸せそうに微笑み若武者を見つめる老人であった。
そう。生きていたのだ。押絵の男たちはそこに息づいていた。呼吸し肺を膨らませ、血の通う体は頬を紅く染めているのだ。
老人は皺の刻まれた顔を緩め目尻に幸せを載せている。一方の若武者は苦悶の表情を浮かべていた。まるで対象的な二人。炭治郎は相反する二つの感情を嗅ぎ取りくらりと目眩がした。あまりにも濃すぎるのだ。
「…君たちにだけ、本当のことを言おうと思うんだ」
炭吉は声を潜めて口にした。
「この二人……想い合う二人のことを、知ってほしいんだ」
炭治郎と禰豆子は顔を見合わせ、こくりと頷いた。
***
あれは、明治の終わり頃のことだった。
縁壱とは古い友人だったんだ。故郷では縁壱は女の子たちの憧れのまとだったよ。優しくて、逞しくて、物静か。初恋の相手にはうってつけだったんだ。
でも、縁壱は誰も好きにはならない。好きだと言われたら、ありがとうを返して、それ以上の心をあげないんだ。ある意味での優しさだ。
その内、女の子たちは縁壱ではない他の男に恋をしていくようになる。……縁壱は、そういう男だったんだ。私は縁壱の友達だった。少年時代の彼はとても良いやつだったし、放っておけないやつだった。
少年時代を過ぎると、縁壱と私は一緒に上京した。田舎モノの私たちは観光したよ。色んな所をね。
その中でも、浅草十二階。
こちらを手招きする魅力的な女たち。いかがわしい見世物小屋。一時の夢に酔う者たちの浮かれた笑い声。
私はどぎまぎしながら浅草十二階の階段を登った。雲をも凌ぐ塔――――ふふふ…馬鹿と煙は高いところが好きなんて言われるけれど。確かに僕らは馬鹿だった。東京に来ただけで何者かになれる気がした。
あの縁壱も、何かを求めて東京に来たのだと、今にしてみれば思うんだ。
そして、その頂上で――――縁壱は恋に落ちたんだ。
遠眼鏡で地上を見ていたら、突然、ハッとしたような顔をしたんだよ。どうした、と聞いても何も答えずにね。
私は縁壱がおかしくなったと思ったよ。この東京――いや、浅草十二階という魔窟に飲まれてしまったんじゃないかって、そうも思った。暫くうわの空だった縁壱は私に言った。
「今日は素晴らしい日だ。炭吉、ありがとう」
その時の縁壱の顔を私は忘れられない。
それからというもの、縁壱は暇さえあれは十二階に足繁く通っていた。
仲間内じゃあ、あのあたりの十二階下の女と遊んでいるんだ、なんて噂もあったけれど……。実際は全く違うものだ。
縁壱は遠眼鏡で何かを覗いていたんだ。熱心に――夢見るような顔をして。
いよいよおかしくなったんじゃないか、と思われ始めて、私は遂に遠眼鏡を覗く縁壱に一言言ってやらねばと思い至った。
縁壱の後をつけて、熱心に遠眼鏡を取り出す縁壱に「どうしてしまったんだ」と肩を叩いたんだ。縁壱は驚いたように私のことを頭のてっぺんから爪先まで見たと思うと、顔を赤くして黙りこくった。
彼は感情を表に出すことを苦手としていたが、あの時はまるで子どものようだったよ。私はそんな縁壱の顔を見ると甘やかさずにはいられなくなるのだけど――しかし、それでも問いただした。
しばらくは貝のように口を閉ざしていた縁壱だけど、しつこい私に根負けして、教えてくれた。
ずっと探していた運命の人を見つけたのだ、と。
笑ってしまうだろう。でも夢見がちなその言葉は笑い飛ばせるようなものではなかった。
縁壱は私に遠眼鏡を渡して「見てほしい」と雲で覆われたあたりを指差した。照れたように、炭吉にだけ教えると囁いて――――。
私が言われるがまま遠眼鏡を覗くと、雲が広がっていたよ。その雲はぐんぐんと動き出して藤色の霧が表れた。その霧の中から、まん丸の満月と、若い侍が佇んでいるのが見えた。
満月を見上げて悩ましげに眉をひそめて……少しだけ開かれた口元からは今にもため息が漏れ出しそうだった。
こんなに明瞭に見えるものかと私が仰天して遠眼鏡から目を離すと、縁壱は「美しい人だろう」と自慢げなんだ。
「これは、おれの兄上なのだ」と縁壱は言った。確かに、侍は縁壱にそっくりだった。でも縁壱に兄はいない。
――――その時の私はそのことをすっかりと忘れていたがね。
「この人に会うために、おれはここに来たのだ。ああ、早くお会いしたい。ここでしかお姿を見ることができないことが口惜しい……。意地悪な方。どこに行けばお会いできるのか」
そう言っていたよ。
縁壱は恋煩いをしていたんだ。それを悟った私は呆然としたまま、縁壱と十二階を降りた。
地上は霧がたちこめていて、そこを迷いなく進む縁壱はあの侍の姿とよく似ていた。……それを見て、私は兄弟を出会わせてやりたいと思ったんだ。
世界の中でどこか薄い膜に覆われた中で生きているような縁壱が――――我儘なんて一つも言ったこともないような縁壱が――――自分の強い願望を初めて口にしたのだから。
それからというもの私は魔窟を練り歩き、あの男を探した。あてもなく魔窟を歩いた私も、縁壱と同様に魔窟に魅入られたのだと陰口を叩かれたけれどね。しかし、私たちはもっと尊いもの――――純粋で優しくて、移ろいやすく壊れやすいものの為に生きていたんだ。
……え? ははは。……いいや違うよ。愛ではない。これを言葉にするのは難しいな………強いて言うなら、“幸せ”かな。
ともかく、だ。数ヶ月が経ち、私は興奮気味の縁壱に連れられて十二階に登ったんだ。縁壱は風呂敷を大切そうに抱えて、トントンと上がっていってしまって追いかけるのは大変だったよ。足に羽でも生やしたみたいだった。
十二階のてっぺんで、縁壱はうやうやしく風呂敷の中から絵を取り出した。その中に、例の侍がいたんだ。弓張り月の下、憂い顔で月光から目をそらす侍―――。
「この人は、こんなところにいて、この縁壱から隠れていた。隠れ鬼……というのは兄上と興じたことのない遊びだな」
面白がるような声だった。
縁壱は侍の目元を指で撫で、頬へと滑らせる。そして艷やかな黒髪を辿ると、憂いを載せた唇に触れる。その指先は顎を伝い首筋、鎖骨のあたり、肩から腰をなぞるように擽っていった。まるで恋人にする愛撫――情事を見てしまったようで気恥ずかしかったなあ。
私が目をそらすと、縁壱は「そうだ」と弾むような声で私に遠眼鏡を差し出した。私は訳もわからずその遠眼鏡で侍を覗くと、彼もまた顔を赤らめ少し怒ったような顔でこちらを見ていた。それはそうだろうとも。私という他人の目がある中であんな愛撫を受ける羞恥は如何ほどだろう!
ますます気恥ずかしくなった私は遠眼鏡を縁壱に返そうとした。しかし縁壱は「言葉足らずですまない」と言って絵を丁寧に風呂敷に仕舞うと
「さかさにして、おれのことを見てほしいのだ」と言ったんだ。
つまり、覗き穴を縁壱に向けて大きなレンズから縁壱を見るように言ったんだよ。私は言われるがままそうした。
するとね、縁壱が小さな人形のような姿で映るんだ。縁壱はめったに見せない満開の笑顔でこちらを見て、手をふっていた。
別れの挨拶のようで、ドキリとしたよ。
手をふる縁壱はどんどん小さくなっていって、そして霧が――藤色の霧が彼を隠した。
私は慌ててレンズから目を離した。
そこにはもう縁壱の姿はなかった。
その時に私はピンときて、風呂敷から絵を取り出したんだ。
絵の中にはやっぱり、縁壱がいた。
月の下、正座する縁壱の膝に――膝枕をするような塩梅で、侍が体を預けているんだ。いつの間にか袴を脱いだ着流し姿で、片方の足は裸足になってしまっていてね。指先を丸めた足がいやに艶めかしい。縁壱は侍の頬を撫でて幸せそうに微笑んでいたよ。
私は正しく遠眼鏡を覗き込んだ。
侍はやっぱり怒ったような顔でこちらを睨みつけプイと視線をそらす。照れていたんだね。縁壱は夢見るような――恋に浮かれた顔で、笑いかけてくれた。
私は嬉しかった。
彼らを祝福した。縁壱を祝福した。ようやく幸せに――この世界に産まれた意味を見出したのだと思った。
私は風呂敷に二人の肖像を仕舞って帰路に着いた。二人っきりにさせてやりたかったから、なんとか工夫してね……。二人っきりにさせたあとは恐る恐る風呂敷から覗いたりしてねえ。……ふふ。そりゃあそうさ。恋人同士が二人っきりになってする事を、邪魔するほど私は野暮じゃないよ。
でも絵の中ばかりじゃあ退屈してしまうだろう。だから、時折こうして外を見せてやるんだ。
私とすやこが結ばれた時は二人にも報告をして、産まれたばかりのすみれにも挨拶させた。縁壱は特に喜んでくれたよ。
そして今、二人に旅をさせてやりたくて、こうして各地を巡っているというわけなんだ。
ほら、炭治郎と禰豆子も、二人をもう一度見てほしい……。
ははは! そう、彼はとても照れ屋だから、私が勝手に話してしまって怒っているのだね。後で謝らないと……。うん、でも、すぐに機嫌を直すよ。
だって、隣に縁壱がいるから。
縁壱は彼のために絵の中の世界に入り込んだけれど、彼もまた縁壱のことしか見えないのだもの。
***
炭治郎は肖像を見る。
侍はどこか苦しそうな顔で老人にもたれていた。炭治郎に気づくとパッと顔色を変えて――六つ目の異形の顔になった。
驚いて炭吉に言うと
「彼の方は“鬼”でもあるから」となんでもないように教える。
炭治郎が絵を見ると、苦悶の表情から一転して、悪戯っぽい顔をしていた。存外に子どものようで、思わず笑ってしまう。
「鬼だから、縁壱さんだけが歳を取るんですね」
炭治郎が言う。
「そう………。縁壱だけが歳を取る。縁壱は気にしていないようだけれど、巌勝さん――お兄さんの方は共に歳を取れないことに苦しんでいるようなんだ。私はそれが不憫で……」
炭吉は哀しそうな顔で言った。
列車が止まる。
炭吉はぱっと笑顔を作って「長話をしてしまったね」と風呂敷に二人の肖像をしまった。
「それでは、また今度。さよなら」
炭吉は朗らかに微笑み列車を降りていった。
駅には霧がたちこめていて、炭吉の後ろ姿はすぐに見えなくなっていった。
炭治郎と禰豆子は顔を見合わせて今までのことが夢じゃないかしらんと幼い子どものように手を繋ぐのだった。