奪われざるもの
縁壱は何時だって喪失を恐れている。
だが同時に兄のことに関して言えば、喪失の恐れを抱いていないように見受けられた。自らの手で鬼から兄を助けたことによる自信と安堵。そして兄が――巌勝自身が縁壱から呼吸法を学び鬼狩り屈指の剣士となったからであろう。
それが産屋敷の見解であった。
巌勝はそれを聞き眉をひそめた。
それならば――それならば任務を終えたあとの、あの、儀式めいた行為は一体なんだというのか。苛立ちを抑えるように巌勝は小さく深呼吸をする。
鬼を狩ってすぐに産屋敷の鴉に呼ばれた。巌勝が私邸に戻る前に伝えたいことがあったらしい。何の用かと急ぎ馳せ参じた彼に向かって産屋敷が口にしたのは縁壱のことだった。
巌勝は以前にも産屋敷から縁壱が彼の私邸に入り浸りすぎることを窘められた。指摘を受けた時には冷や汗が止まらなかった。この鬼狩りの頂点に立つ男に全てが露見していると知ったからだ。誰にも知られてはならぬと隠していたつもりの縁壱とのただならぬ関係を。
縁壱は巌勝が任務から帰ると身体中をくまなく検分する。彼は巌勝の身体に鬼からの傷をつけられていることを恐れているようだった。そして、その視線、手つき、息遣い――全てに巌勝は気が狂いそうだった。己の弱さを一つ一つ暴かれているようであるから。
一通りの検分を終えると縁壱は己の戦果を報告し、無垢な顔をして「互いに生きてまた会えたことを喜びましょう」などと囁き思うまま兄を抱くのだ。
血を分けた兄弟同士の畜生にも劣るその行為を、縁壱はまるで儀式かのように行う。
そうだ。縁壱は入り浸りすぎたのだ。まさか縁壱が鬼狩りよりも己との逢瀬を優先させていたとは思いもよらなかった。
産屋敷はあの縁壱を堕落させ貶めていると、そう咎めているに違いない。
巌勝はそう思い「私があれによく言って聞かせます」と平伏した。
そして、再び産屋敷に咎められている。いまだ縁壱は巌勝を抱き、それを止める気配はない。そればかりかその行為に溺れているような素振りさえ見せる。
産屋敷は、ふう、と息をつき、彼にしては珍しく毒の含んだ声色で
「――――結局、縁壱は君が任務から帰ると君の屋敷に入り浸る。明らかに、君の任務に合わせて、鬼を狩りに行く。そして、任務を遂行したから、と君のもとへとすっ飛んでいくんだよ……。よっぽど、《兄上》からのご褒美が魅力的なのだろうね?」と付け加えた。
巌勝は頭に血がのぼるのを自覚する。
しかし、すぐに呼吸を整えて「私が至らぬゆえに、あれは私の無事を確認せずにはいられぬのでしょう」と言う。縁壱を庇うような形になっていたが、巌勝はそのことに気づいてはいなかった。
「巌勝。君は縁壱を甘やかしすぎだ」
産屋敷は言った。そんなことはない、と反論するべく口を開くが人差し指を口元に当てられてしまい言葉を紡ぐことができなくなった。
「縁壱にとって君そのものが褒美だ。解るかい?
金や名声ではなく、君そのものだ」
産屋敷は子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「だから、過度に与えすぎてはいけない。
飢えさせねばならない。良き働きをしたら、それ相応の褒美を与え、そうでないならば少しだけ。そして、わがままが過ぎるときは罰を与えなくてはならない。……果断にね。
ねえ巌勝。君なら分かるだろう」
巌勝には分からなかった。
この身は褒美だと言われた。そして褒美をねだったから、縁壱には罰が与えられるらしい。
それはひどい理不尽であると感じられた。縁壱は鬼を倒し、呼吸法を教えているではないか。弱きを助け悪を挫く。それに対する見返りは求めていない。この身は褒美なんかではない。縁壱はただ家族を求めているだけだ。そこにいる家族を求めている。
ささやかな願いではないか。まったく無欲な弟だ。
これ以上俺の弟に何を求めるというのか、分からない、分からない、分からない――――。
何もかもが分からない――――。
「巌勝」
産屋敷の声が巌勝を現実に戻す。
「……もう、いいよ。帰りなさい。縁壱が待っているのだろう」
―――そうだ。縁壱が待っている。
巌勝はこめかみが軋むのを堪えながら、弟のもとに帰らねば、と歯を食いしばるのだった。
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兄は傷を作らない。
しかし、己の身体の傷へは無頓着である。
縁壱は巌勝の身体を検分しながらそう思う。
驚くべき早さで呼吸法を習得し月の呼吸を編み出した巌勝。ようやく守れた大切な家族。
巌勝は己のことを無欲だと言う。誰であろうとも助け、誰であろうとも惜しみなく剣技を教えるからだ。それを尊いことのように言って、誇らしげに、そしてちょっぴりと“不満”を載せて、縁壱を褒める。
その不満の正体が縁壱には分からない。分からないが、巌勝が己のことを大切に――そして誇らしく思っていることが何よりも嬉しい。この人の為ならば、なんだってできる気がする。
まるで初めて家を出た時のように、どこまでも走って行ける気がするほどに。足が勝手に動く。感情に任せて身体を動かしたいという強い衝動。その衝動を鬼を狩るという行為に替えれば兄はますます褒めてくれる。
――ああ、なんという幸福だろうか!
しかし、本当の縁壱の望みは兄にずっと藤の中に隠れてもらうことだった。決して死ぬことも傷を付けられることもない場所で、そして、己の側で笑ってほしい。
けれどそれでは兄は笑ってくれない。大切な兄を戦地に送ることは苦しくとも兄には笑ってほしい。だから望みは言わなかった。それに巌勝は強い。滅多なことでは鬼に殺されない。だから兄の望み通り、戦地に送るのを見守ることにしたのだ。後ろ姿を見るたびに気が気でないのを必死に隠して、見えなくなるまで彼を見送り天に無事を祈った。
いつしか巌勝が帰ってきたならば、その無事を確かめるようになった。傷の一つ一つを知り、彼が生きていることを確かめると幸福だった。酒を飲んだあとのような心地よく癖になる幸福だ。
この行為を止めることなんてできなかった。
縁壱はいつも部屋の奥で巌勝を脱がせる。
慎み深く禁欲的な彼が一糸まとわぬ姿になるのを見ると、心臓が煩くなる。まるで馬が駆けているようだった。
目の前の昼の太陽の光を忌避するように、太陽のもとで肌を晒すことを恥じるように、薄暗い部屋で晒された身体。巌勝は敷布の上で胡座をかいて、早く終わらせろと目で訴えてくる。
そうして縁壱は巌勝ににじり寄って検分を始めるのだ。
鍛え上げられた身体には数々の戦いで作った細かな傷がある。新たな傷がないかを確かめながら、脇腹にある過去の傷跡にそっと触れる。つうと指で辿ると巌勝の息が乱れた。
チラと一瞥を送ると、巌勝は何かを堪えるように目を閉じていた。睫毛が震え、頬はほんのりと紅く染まっている。そのまま彼の顔を見ながら腹筋をたどり、悪戯に臍のくぼみを擽る。
「っ、こら……」
震える声で叱責され、縁壱は名残惜しくも指を離し、今度は後ろにまわった。
項から肩へ手を這わせ、背骨に沿ってくぼみを辿る。背に刻まれた幾つかの傷跡には覚えがある。鬼との戦いで負った傷だ。
胸にもやもやとしたものが広がり、縁壱はそれを誤魔化すようにその傷に舌を這わせた。びくりと身体が跳ね、逃げを打つように背が反らされる。縁壱は逃すまいと腰を掴み寄せ、傷跡を舌先でぐりぐりと抉った。押さえ込んだ腰が揺らめく。
一つ一つの傷跡を満足するまで味わうと、耳が真っ赤に染まっている。背にはじんわりと汗の玉を浮かべているので、それも舐め取ってやった。
「あッ」と巌勝が小さく喘ぐ。すぐに腕で口を覆ってしまうので、その手を掴み外させる。
「縁壱……」
震える声が愛おしい。縋るような声は望みを何でもを叶えてやりたくなる。
だがしかし。
「駄目ですよ。兄上は、すぐに腕や指を噛んでしまうのだから」
そう伝えて口の中に指を入れた。俺の指なら噛んで構いません、と囁きながらくちゅくちゅと音を立てて舌をもてあそび腔内をかき混ぜる。
巌勝は苦しそうに呻き、それと同時に腰をいやらしくくねらせ縁壱に押し付けていた。きっと無意識だ。縁壱が透き通る目で内部を見ると、何度も彼を受け入れているそこは期待に震えひくひくと収縮を繰り返していた。
背筋に電流が走る。縁壱は強い衝動を押し殺して前に回る。
足に傷がないかを確かめるため膝立ちをさせると性器が屹立していた。恥じ入るように目をそらす様が愛らしく、そして期待に震える身体に縁壱もまた顔を紅く染めながら検分を進める。
内腿にふれるとびくりと震えてしまったのでなだめるようにスルスルと撫でた。すると肩に手を置かれ爪を立てられる。猫が甘えているようだと思った。
巌勝を敷布に仰向けにさせ、ひざから下を丁寧に手でなぞる。脛から足首、そして甲や裏は怪我が多い。戦いに出ているのだから仕方がないことだと分かっていても、気に食わない。舌を這わせ、ときおり苛立ちに任せて歯を立てる。
「あッ……ひぅ……よりいち……」
しかし、悶えるような巌勝の声を聞くと胸に巣食う暗雲はたちどころに霧散してしまうのだ。もっとその声が聞きたくて、縁壱は彼の足の指を舐めしゃぶった。ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃと音を立て、足指の股に舌を差し入れてはぐちゅ、と抉り、ぢゅうと吸う。
足の指が丸まりピンと強ばるのをじっくりと解す。両足ともほぐし終えたら、足首を甘噛しながら、片足を己の肩にかけた。
巌勝は真っ赤に顔を染めていた。息も絶え絶えと言ったふうであるが、それでも蕩けきった瞳をキッと強気につりあげ縁壱を見ていた。口のはしから唾液が溢れるのが勿体ない。縁壱はそう思った。ちゅ、と足に口づけてから、グイと身体を倒してその唾液を舐め取る。
「は……ぁ……あ……満足、か…?」と巌勝が問う。
「……いいえ。俺は全く足りませぬ。いつだってそうでしょう?」と縁壱は言う。
「…そうだな」
巌勝はふ、と微笑み片足を縁壱の腰に回した。
「兄上?」
「今日を過ぎたら………しばらくは、会えぬ」
「……なぜ?」
「次……お前に与えられる任務は、ここから遠く…そして、村人を囮にする鬼だそうだ。
お前といえど、手を焼くやもしれぬ」
そう言って、巌勝は縁壱の頬をするりとなでた。
「そのような……情けない顔を見せてくれるな」
「ですが、兄上に会えぬのは辛い」
「わがままなやつ」
「……そうです。おれは、悪い子です……叱ってくださいませ」
「お前は、悪い子だ」
「あにうえ」
「わるいこ……わるいこ……ッ、…ン……」
「もっと。叱って。あにうえ」
「ひぁ……より…い…よりいち……」
叱って、叱って、と甘えながら、腰を押しつけて巌勝の性器を擦る。びくびくと震える巌勝は「よりいち」と舌っ足らずに名を呼びながら、しだいに彼の動きに合わせて腰を振り始めた。
「んっ…んっ、あっ…はぅ…」
「あにうえ…しかってください」
「ン…あっ、わるい……こっ、ああ! よりいち、わるいこ…はやく……はやく…はやくしてくれ……」
縁壱はどろどろに蕩けた巌勝の瞳に誘われて唇を奪い、そして袴を脱ぎ去り、先走りを垂らす己の性器を取り出した。
「あ………」
一瞬だけ、巌勝は恐怖の色を見せる。
「こわがらないで」
縁壱は微笑み、そしてもう一度口づけを――深い深い、呼吸を奪うような口づけした。
ぱちゅん、ぱちゅん、という水音と、己の小さな喘ぎ声と、巌勝の嬌声。
初めて目合った時、巌勝は、泣いていた。泣かないでほしいと思って涙を舐め取ると、どうしてお前はそんなに綺麗なのだ、と言われた。
ゆだった頭では何を言われているのか解らなくて、兄上こそ美しく俺は兄上に抗えない、と言った。それは罪の告白のようだった。すると、兄は、俺のせいなのか、と泣きながら笑っていた。
そうです、あにうえのせいです。うん、うん、おれのせいなんだな。すきなんです、とても。そうか、かわいそうなよりいち。おれをおきざりにして、しなないで、あにうえ、おねがいです。……これでは、しねないな。
巌勝は死ねないな、と笑った。約束ですよ、と言えば、やっぱり、微笑んでくれた。
「あにうえっ、戻ったら、褒めてください…。そして、たくさん……たくさん、兄上をください」
キツく締め付ける内壁に抗い、性器を奥まで挿れて、ギリギリまで抜き、再び奥を突く。
激しい目合いに巌勝の身体は歓び震えている。
「わかっ…た、っ…、たくさんくれてやる。たくさんっ、たくさん……、くれてやる! だから……」
――――だから、お前も俺にお前をよこせ。他の者に奪われてくれるな。
巌勝は叫び、そして背を海老反りにさせながら果てた。縁壱を包む肉壁がぎゅううと締め付け精を吐き出せと命じる。
息を詰めて兄の身体に命じられるがまま精を吐き出し、塗り込むようにぐりぐりと腰を回す。びくびくと身体を跳ねさせる巌勝を抱きしめて、白む世界に兄の輪郭だけを探す。
誰かに奪われている、なんて、思ったことはない。敢えて言うならば、誰かに届いてくれれば嬉しい。
しかし、本当は届かなくともよいのだ。
求められることは嬉しい。この世にいても良いというゆるしに思える。忌み子の俺でも、価値があるのだと、気休めでも感じられる。しかしそれを自ら求めてはいなかった。
けれど、こころだけは誰にも明け渡さないと決めている。今はもう、世界にたった一人、縁壱にのこされた兄にしか明け渡すつもりもない。
「あにうえ……おれのいない間に死なないでくださいね」
「………そう言われてしまったら、おれは死ねないよ」
遠くで鴉が鳴いている。
その時ばかりは、鴉の呼び声が酷く煩わしいと感じた。