朱の唇に触れよ、誰れが汝の明日猶在るを知らん
久し振りにあった兄はまるで知らない男のようだった。記憶の中の兄が成長したら丁度このようになるだろう、と想像していたような姿であるのに。
己と違い手入れのされた髪は伸びて腰にまで届く。顔立ちは精悍。目もとは涼やかで、意外にも長い睫毛は月の光を浴びるときらきらと煌めき縁壱をハッとさせる。
鍛え上げられた肉体はあと少しで全盛期を迎えるに違いなく、その身体に痣が浮かぶ日も近い。手のひらは鍛錬により厚く堅くなっており、刀を握る節くれだった指は時に繊細に花に触れる。
唇は薄く、小さく、控えめに開かれる口からは耳に心地よい低い声で「縁壱」と己の名を呼んでくれる。そこから覗く舌はとても赤く――それを見ると縁壱は胸が苦しくなるのだ。
と、縁壱が巌勝を見つめていると、巌勝が眉を顰めて縁壱を睨みつけた。
「何か言いたいことでも?」
「あ、いえ……なにも……」
「お前にそのように見られると本当に穴が開きそうだ」
怒らせてしまったのだろうかと慌てた縁壱は、違うのです、と言い募る。
「兄上があまりに変わられたから――とても美しくなったから」
すると、巌勝はきょとんとした顔になり、やがて徐々に顔を赤く染め口をわななかせた。
「兄上?」
「わ、私ならともかく他の者にはあまりそういうことをしてはいけない」
巌勝は声を潜め、特に女には、と付け加える。
「不躾でしたか?」
「…そうだな。あまりじろじろと人を見すぎるのは良くない」
「申し訳ありません。……兄上が美しかったものですから」
「〜〜っ、だから、そういうことを言うなと言っている!」
顔を真っ赤にさせた巌勝は「もうよい」と拗ねたように唇を尖らせてずんずんと歩いていってしまった。
兄が変わってしまったと思う、もう一つのこと。
記憶の中の兄は、あのように拗ねたり怒ったり、神経質に眉を顰めてみせる人ではなかった。憂いを帯びたような顔をする人でもなく、いらだちを顕にする人でもない。
子供の時分ですらあのように子供のように拗ねて癇癪を起こすことなどなかった。
巌勝の後ろ姿、結われた髪から覗く耳と項が赤く染まっているのを見て、縁壱の腹の奥がむずむずとする。自分ですら、こんなことは初めてだ。
縁壱が立ち尽くして腹のあたりを押さえて首を傾げていると「おい」と巌勝から声をかけられる。
「何をしている。置いて行くぞ」
昔だったらきっと手を引いてくれる。でも今は違う。置いて行く、なんて意地悪を言って、縁壱が隣に来るまで待っていてくれる。
とてとてと歩いて巌勝の隣まで来ると、縁壱は腹の奥のむずむずが抑えられなくなって「美しいから美しいというのは、いけないことでしょうか」と言った。
「お前、わざとだろう」
巌勝が上目遣いに睨む。むずむずが心地よい。
「はい。わざとです。申し訳ありません。しかし、いけないことでしょうか?」
「……何を笑っているのだ」
「? 笑っておりません」
「笑っているだろう」
「笑ってません」
「いいや。笑っている」
フン、と巌勝は縁壱から顔をそらして、やっぱりずんずんと歩いていってしまった。
縁壱は今度こそ慌てて謝るのだった。
「……ということがあった。兄上は何が気に食わなかったのだろう」
縁壱が話し終えると、聞いていた煉獄は可笑してくて堪らないといった風に豪快に笑う。
「縁壱殿は巌勝殿を普通の男にするのが得意だ! そして、縁壱殿にもそのような遊び心があったとは、意外や意外!」
「ふつうのおとこ?」
「そうだとも! そのように巌勝殿が照れて癇癪を起こすところなど想像もできんな」
「兄上は照れていたのですか」
「照れている姿を可愛らしいと思ったから、縁壱殿もからかったのだろう?」
照れている姿が可愛らしい?
だれが? 兄上が?
照れていた? そうか。兄上のあれは照れていたのか。
兄上が可愛らしい?
いいや、大の男にそのようなこと言うまい。
しかし―――。
ああ、そうだ。可愛らしかった。あのような姿は見たことがなかった。
「煉獄殿。おれはあの人がとても可愛らしいと思った。こんなこと初めてだ。いつも兄上はおれのことを気にかけてくださっていて、おれのあこがれで……可愛らしいなどと、一度も思ったことないのに。
兄上は変わってしまわれたのだ」
言い募る縁壱に、煉獄はぱちくりと瞬きをして、そして「縁壱殿。おききなさい」と言った。
「貴方がた兄弟が離れていた時というのは、如何ほどであったか。考えてみなさい。
人は年月と共に変わるものだ。貴方だって、巌勝殿と過ごした幼い頃の貴方ではあるまいよ」
今度は縁壱がぱちくりと瞬きをする番だった。
「貴方が――――貴方が亡くなった奥方と過ごした日々があったように、貴方の兄上にも、貴方の知らぬ日々があった。
少年のままではいられない。お互いに少年のままではいないのだ」
そして煉獄は、安心させるように笑いかける。
「きっと巌勝殿も貴方の変化に戸惑っておられる。小さな守るべき弟から、そのような事を言われたら、いつもの巌勝殿ではいられなかったのだろうな」
「では、おれは、どうすればよいだろう」と縁壱は訊いた。
「簡単なことだ!」と煉獄は大きな声を出した。
「共に過ごせば良い! 兄と弟になって、共に笑い、助け、支え合い、時に喧嘩でもすれば良い!」
そして、と煉獄は声を小さくしていたずらっぽくニヤリと笑う。
「もっと巌勝殿を困らせてあげればよいのだ。美しい、とも、可愛らしい、とも言って巌勝殿を困らせてやれ。
……巌勝殿が常に気を張るのではなく、我々仲間の前でだけは、油断した姿も見せてくれるように」
縁壱はまるで子供のようにこくりと頷いた。
それから縁壱は煉獄に言われた通り、事あるごとに美しいと褒め、可愛らしいと褒めた。言われた巌勝は顔を赤くさせたり怒ってみせたりと忙しく顔色を変えていた。
可愛らしいと言われた時は滅多に見せない冷たい顔をしたが、すぐに誰の入れ知恵だと問い詰め、それ以降は苦い顔で「男にそういうことを言うものじゃない……」と唸っていた。ちなみに縁壱は猫なで声で頭を撫でられながら「縁壱は兄さんに隠し事する悪い子だったか?」と言われてしまってあっさりと口を割った。
そうして季節がめぐり春になった。
縁壱はとある寺院へと急いでいた。巌勝に痣が浮かんだのだという知らせを受け会いに行ったのだ。巌勝は任務の後、鬼狩りを助けているその寺院に身を寄せていると言う。
門を通され若い男に案内されたのは、梅林だった。
兄がいた。
横顔から覗くのは、首筋から唇にかけて広がる痣。
風が吹いた。
巌勝の黒髪が風と遊ぶ。
この瞬間、縁壱は、時がひどくゆっくり進むように感じた。己が特殊な目を持っているからだろうか。そうとも思った。
梅の花を見つめていた目がふせられ、まつげが震える。そしてゆっくりと縁壱に視線がうつされる。
目があった。こちらを向いた巌勝の額には縁壱とよく似た痣があった。
巌勝はうっそりと笑い「縁壱」と唇を動かす。
「見ろ。お前とお揃いだ」
兄の唇の動き。睫毛の震え。喜びをたたえて潤む瞳が縁壱を捉え、瞬きをする。指先が梅の花から離れて乱れた髪をおさえる。
ひとつひとつがひどくゆっくりに見える。
「縁壱?」
巌勝が不思議そうに名を呼ぶ。
縁壱はもっと近くで彼を見たくて近づいた。
「うつくしい」
「……ふふ。聞き飽きた。
しかし、そうだな今日は気分がいいから許してやろう」
唇が弧を描きながら動く。小さな口からは真っ赤な舌が覗き、声を出すたび喉が震えている。
美しいと思った。
兄を構成する何もかもが。
腹の奥でいっせいに蝶が羽ばたくような、そんな心地がした。
「好きです」
縁壱は言った。
「は?」
巌勝は顔をしかめる。
「兄上が好きです」
「……からかいが過ぎるぞ」
「いいえ。からかいなどではありませぬ」
戸惑ったように泳ぐ視線に苛立ちを覚え「こちらを見て」と言う。
「兄上が好き……。何度だって、何十回だって……百回だってあなたに伝える」
恋心を自覚した。
縁壱は笑った。戸惑ったような兄の顔がとても可愛らしいと思った。
この瞬間、縁壱は世界から祝福されていた。