子どもの言い分
これがバレたら推薦も駄目になるのだろうか。そしたら父に勘当されるかもしれない。でも、まあ、いいか。勘当されたら彼の家に居候させてもらえるかもしれない。
縁壱は机に押し倒した巌勝を見ながらそう思った。現実逃避に違いない。
「教師を押し倒しキスをするなど。優等生にあるまじき行為だな」
巌勝は口もとを歪ませてそう言う。
「優等生では……ありませんから……」
縁壱は巌勝の両腕を机に押さえつけ二度目のキスをした。
生まれ変わっても隣には兄がいなかった。縁壱は世界が真っ暗になったような心地だった。それでも、この世界のどこかにいるはずだと兄を探した。
探しながら、縁壱は兄との前世の思い出を胸に剣道や勉学に励んだ。前世の兄は教育を与えられなかった縁壱に対し引け目を感じていたことを知っていたからだ。勉学に励む縁壱を見ればもう一度会ったときに笑ってくれると思ったのだ。それから、褒めてくれるのではないかと思った。兄の自慢の弟でいたかった。
剣道に励んだのは兄を見つけられると思った。兄が己を見つけてくれるのではないかと思ったのだ。
しかし一向に兄を見つけることが出来なかった。縁壱はポッカリと胸にあいた穴を埋める術を見つけることも出来ずに藻掻くしかなかった。
転機が訪れたのは高校の入学式の時の事だった。
入学式に登壇した新任教師――若く、教師になったばかりだというその教師。彼は確かに己の兄である巌勝その人に他ならない。
縁壱は目を輝かせ彼を凝視した。新任教師の顔も、声も、ほんの少しの仕草まで、あの「兄」に違いない。胸の奥から湧き上がる熱に、思わず縁壱は胸をぎゅうとおさえた。
神様のちょっとした手違いで、俺たちは双子に産まれなかった。でもこうして再会することができた。ああ、やはり運命の糸で結ばれているのだ!!
その瞬間から世界の全てが輝いて見えた。
巌勝は縁壱の学年を担当する英語の教師だった。つまり毎日だって会える。すぐ側で、話して、笑って、触れることだって出来る。さらに幸運なことに、巌勝も前世を覚えていたようだった。彼のことを「兄上」と呼んだ縁壱に驚いたような顔をして、それからふわりと微笑み自身の口もとに人差し指を当てて「ここでは『先生』だろう」と言ってみせたのだ。
縁壱は浮かれていた。巌勝は兄弟として接することを許さなかったが、二人きりになれば縁壱を出来得る限り甘やかしてくれた。まるで蜜月だった。
しかし縁壱が高校三年生になってその蜜月はあっけなく終わりを告げる。某大学への指定校推薦入学が決まった冬の日のことだった。その頃の縁壱は卒業をいよいよ目の前にして今のようには巌勝と会えなくなることが憂鬱だった。それ故にますます巌勝に甘えるようになっていた。
「大学入っても会ってくれますか? 生徒と教師ではなく……兄弟として、会ってくれますか?」と縁壱が訊く。狭い進路指導室で、他の生徒の為に赤本をめくる巌勝の背にコツンと額を当てて、小さな――しかし砂糖菓子のように甘い声で縁壱は訊いたのだ。
振り返って勿論だと言ってほしかった。他の者のために動く指先を、目を、意識を、自分に向けてほしかった。その手で頭をなでてほしかった。
だが、巌勝は振り返らずに言う。
「お前との関係が生徒と教師ではない何かになることは、ありえない」
ガツンと頭を殴られたような気分だった。
「っ、なぜ……」
「そんなもの、明白だろう。今生では、私達は兄弟ではなかった。厳然たる事実だ」
言葉を失い黙りこくる縁壱に巌勝は「分かるだろう」と優しい声で諭す。
「まだ高校生の、こどものお前には分からぬかもしれぬが……これで良かったのだ。お前と私は他人で――生徒と教師。
……少しの寂寞も感じぬと言えば嘘になるが……。
これが運命なのであろうよ。
……これが、私達の最良の姿だ」
その言葉にガラガラと世界が崩壊していくのを感じた。全てを壊された。
縁壱は衝動のまま腕を掴み巌勝を机に押し倒す。巌勝は肺から空気が押し出されたような声をあげ痛みで顔を歪める。それを冷静に見ながら覆いかぶさるように机に乗り上げた。
「縁壱!」
驚いたように目を見開いた彼の顔を両手で掴みキスをする。抵抗する彼の鼻をつまめば、巌勝は酸素を取り込むべく口を開く。そして開かれた口に舌を差し入れた。暴力的な衝動だ。それを抑えることをせず、縁壱は巌勝の歯列をなぞり、舌を絡め、口蓋をくすぐり、唾液を啜る。酩酊しているかのような心地だ。縁壱は夢中になって唇を貪った。
そんな縁壱を現実に引き戻したのは鈍い痛みだった。
「っ、いたい…です」
じわりと広がる鉄の味。見れば顔を真っ赤にさせた巌勝が睨みあげている。
「教師を押し倒しキスをするなど。優等生にあるまじき行為だな」
巌勝が言った。
「優等生では……ありませんから……」
縁壱はそう言って、腕を押さえつけて、触れるだけのキスをした。
机の上に放射状に広がる髪。かつてと違って短く切り揃えられた黒髪。外から聞こえるのは部活動に励む生徒たちの声。
自分は制服を身に纏い、兄はスーツ姿。
かつてであれば、己はまだ刀ではなく鍬を持ち小さな家で農夫をしていた年齢で、兄はもう鬼となってしまっていた年齢。
生徒と教師。他人同士。
兄弟ではないという覆しようもない事実。
「いやです。おれは、あなたの弟です。あなたのたった一人弟の縁壱で、あなたはおれのたった一人の兄上です」
縁壱の視界がぼやけ、ぼろりと涙が溢れた。
「ずっと兄上を探してた。胸に穴が空いていて、びゅうびゅう音がするのです。くるしいのです。せっかく兄上を見つけたのに、兄弟にはなれぬという。それが最良だと言う。あんまりだ。酷い。兄上。嫌だ」
酷い、酷い、と何度も詰る。同時に大粒の涙が巌勝にぼとぼとと落ちる。巌勝は何も言わなかった。
縁壱は耳元で囁く。
「……ここで、兄上を犯せば、おれは退学になりますか?」
ビクリと跳ねる身体。それをぎゅうと抱きしめた。
「もしそうなれば、おれは家を勘当されるでしょう。そしたら、兄上のお側に置いてくださいね。おれはあなたの弟となり、夫となり、妻となりますゆえ」
「……どうかしている。正気とは思えない」
「おれが正気でないと言うならば、正気はあなたがあなたの弟を捨てた時に同時に捨てられてしまったようです」
カプリと耳を食み首筋を舐めた。
震える巌勝の身体に言いようのない興奮を覚える。ずっと抑え込んでいた衝動――ずっと見て見ぬふりをしてきた衝動が抑えようもないほど膨れ上がる。しかし、もはや隠す必要などないのだ。思うまま巌勝を貪ってしまえばいい。自分だけのものにしてしまえばいい。
そう思うのに、縁壱はそれ以上何もすることはできなかった。
「縁壱」
巌勝が名を呼ぶ。そしてゆっくりと拘束を解き、腕を縁壱の背にまわした。
「縁壱……よりいち」
その声が優しくて、昔のままで、愛おしくて、縁壱は頭がぐちゃぐちゃになった。
「縁壱。お前はどうしたい?」
優しく背を撫でられながら、縁壱は絞り出すように言う。
「おれは……たとえ兄上に憎まれても……あなたをおれだけのものにしたい」
「そうか。なら、すればいい」
「……っ、」
ふるりと震え、縁壱はもう一度キスをした。触れるだけのキスだった。そしてそれ以上、何もすることができず途方に暮れた。
「どうすればよいのか、分からないのです。ああ、兄上……あにうえ。おれに教えてくださいませ」
迷子になったこどものように、しくしくと泣いて兄に縋る。
そんな縁壱に「ばかだなあ」と巌勝は言った。
「お前、本当に、馬鹿だなあ。子どもだなあ」
そして巌勝はこめかみにキスをして状態を起こし、机に座ると腕を広げる。
「縁壱。縁壱。おいで」
その言葉に縁壱は身体を縮こませるようにして巌勝に身体を預けた。ちゅ、と脳天にキスが落とされる。
「大人になるんだよ。縁壱」
「いやです」
「駄々をこねるな」
「いやだ、いやだ」
「まったく。困った子だ」
巌勝の声は、甘い。縁壱は「あにうえ」と頬ずりをする。
「なんだ?」
「キスして」
「……本当にお前ときたら」
巌勝は縁壱の唇をぺろりと舐めて、それからキスをした。「満足か?」と聞き、己の唇をぺろりと舐める。その姿にどきりと心臓がはねた。
「好きです。好きなんです。ずっと前から……だから、おれを捨てないで」
「泣くな泣くな」
好きだった。ずっとずっと自分だけのものにしたかった。しかし、巌勝はどこまでも縁壱の兄でいてくれる。今だってそうだ。巌勝は優しい。甘い。だからこそ、これ以上強欲になるのは罪深いことのように思われた。そして、結局のところ、縁壱は巌勝の言いなりなのだ。愛する兄の言う通りにする他ない。いつだってそうだった。
縁壱は巌勝を押し倒すように抱きしめて、疲れて眠ってしまうまで泣いた。
すうすうと眠る縁壱の頬を撫でながら巌勝は呟く。
「この俺がどんな思いで、いもしない弟を諦めたのかも知らずに。まったくお前は勝手なことを言う」
その自身の声の甘さに思わずしかめっ面を作ってしまった。
「捨てられたら、どんなに楽だっただろうな」
夕焼けの赤い光が窓から差し込んだ。縁壱の柔らかな髪が、その光を浴びてきらきらときらめいている。
「まったく手にかかる弟だ」
巌勝は縁壱に聞こえぬ声で、そう言うのだった。