おままごと
射し込んできた朝日が縁壱の意識を浮上させる。鳥の鳴き声とふわりとした風が顔の上をを撫でていった。
縁壱は水中から水面に向かってゆっくりと浮かぶように目覚める。
ムクリと上半身を起こしてあくびをひとつかみ殺し、寝ぼけまなこを擦っていると「おはよう御座います」と声をかけられた。彼を起こしにきた彼のメイドの巌勝だ。縁壱は「おはよう」と眠たげな声を出しながら彼に向かって両手を差し出した。
「一人で起きられるでしょう?」と巌勝。
ふるふると頭を振り「ん」と催促をする。それを見た巌勝は「呆れたな」と呟きながら縁壱に近づくとベッドに身を乗り出して小さな彼の主人の口に己のそれを合わせた。
ちゅっ、というリップ音。
縁壱はすぐに離れていってしまうそれが惜しくて、伸ばした腕で結った髪ごと後頭部をおさえ再び唇を合わせる。
「ンッ?! ……は……ぁ、んむ、」
驚いたらしい巌勝がほんの少しだけ口を開くのを逃さず、縁壱は小さな舌をその隙間に差し入れる。やがて巌勝も主人の求めに応じて己の舌を絡ませ始めた。
くちゅ。ぴちゃ。くちゅ、くちゅ。控え目な水音。
外から聞こえるのは車の音、鳥の鳴き声、風の音。それも聞こえなくなる。
外界から切り離されたような一瞬。
ぷは、と巌勝が先に唇を離す。たらりと二人の間を繋ぐ銀の橋。それを巌勝が指で拭ってしまった。
「……朝の準備を。まず、顔を洗いましょう」
「はぁい」
縁壱はぴょんとベッドから降りて、すたすたと洗面台へと向かう巌勝を追う。
ロングスカートを翻して歩く俺の兄上は今日もかっこいい。
縁壱は凛とした背中を見ながらドキドキとはやる胸を押さえた。
巌勝に顔を洗ってもらい、柔らかいタオルで顔を拭われる。「キスをするなら、顔を洗った後にすればよかったかなぁ」と縁壱が考えていると、テキパキと着替えさせられた。白いシャツに濃紺のショートパンツをサスペンダーで吊り、仕上げに赤い蝶ネクタイを結ばれる。
「兄上」
「ここに貴方の兄はおりませんよ」
「……みちかつ」
「はい」
「今度、俺があにう……じゃない、巌勝をお世話したいです」
「はい?」
巌勝はひょいと片眉を上げた。
「俺が、眠ってる兄上を起こす。それで、おはようのちゅうをして、顔を洗って、お着替えをさせて、髪の毛を梳かしてあげる。食事のときも、俺が食べさせてあげます」
うんうん、と縁壱は頷く。これは、とっても、素敵なアイディアだ!
しかし巌勝は返事をせず「ほら、朝ごはんの時間にしましょう。早くしないと学校に遅刻します」と言った。
「兄上……じゃなく、俺は巌勝のお世話したいです」と縁壱は再度言う。
「嫌ですよ」
「じゃあ、学校も行かない」
巌勝がすっと目を細めた。縁壱は亀のように首を縮こませてしまうが真っ直ぐに巌勝の目を見ていた。
「……学校、行きます。だから、今度のお休みの日。いいでしょう?」
「………命令ならば、従いますが」
「命令……じゃなくて、お願い……兄上、それじゃあ駄目?」
巌勝は大きなため息を付く。縁壱の問いには返事をせず、しゃがみこんで、ずり落ちてしまった縁壱の片足の靴下を上げた。
「そこまで言うのなら、次のお休みの日に、いいでしょう」と見上げるようにしながら小さな主人に言う。
そして縁壱の耳元でそっと囁いた。
「兄さんをあまり困らせないでおくれ。いい子にしていたら、お前のおままごとに付き合ってやろうな。なあ。縁壱。いい子になれるか?」
それは吐息を存分に含んだ甘い声だった。
こくこくと何度も頷く縁壱に満足げに微笑んだ巌勝はカプリと丸く柔らかい頬に甘噛みをする。縁壱はきゃ!と叫んで跳び上がった。
そんな小さな主人を見て、メイドはくすくすと笑っていた。
くすくす、くすくす、とおかしそうに、愛おしそうに笑っていた。