直接的な性描写はありませんが
モブ女性と巌勝がセフレ関係にあります。
苦手な方はご注意ください。
モブ女性と巌勝がセフレ関係にあります。
苦手な方はご注意ください。
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていると「みゃう」と猫がこちらを覗き込んだ。真っ白で大きくて、長い毛を持った猫だった。琥珀色の瞳が綺麗だと思った。
「よーしよしよし」
彼女が手を伸ばして撫でてやると、プイとそっぽを向いて去っていってしまう。猫のくせに気位の高そうな顔をしていて腹が立った。
べーっと舌を出して状態を起こすと部屋の主である彼がちょうどその猫を抱き上げるところだった。彼女は慌てて舌を引っ込める。彼はそんな彼女の様子を見てクスクスと笑っていた。躑躅色の彼の目にはからかいの色が浮かんでいる。彼女は顔が火照るのを感じた。
「その子、全然わたしに懐かないよね」と彼女は言う。
「愛想がないっていうかさぁ」
すると彼は言う。
「おやつをくれる人には愛想振りまく。……それに、……。こいつは気まぐれなんだ」
白い猫はゴロゴロと喉を鳴らして彼に甘えていた。
彼女はそれを見てニヤリと口元を歪める。そしてベッドから立ち上がると彼の首に腕を回した。
「私みたいじゃない? 甘いお菓子くれる継国くんには懐いてて、気まぐれなところ」
彼――継国巌勝はジッと彼女を見て、それから「今は気分じゃない」とそっけなく言った。
「継国くんのそういうとこ、好きじゃない」
彼女は顔をしかめて彼の脛を蹴った。しかし巌勝は「そうか。悪かった」と痛がる素振りも見せない。
「そろそろ帰らないとバイトに間に合わないんじゃないか」
「……ヤッたらすぐ帰すわけ? ヤリモクじゃん」
「それは君も分かっていたと思っていたが」
「わ! さいてー!」
「君が言い出したことだろう」
「…………」
まったく、可愛げのない男だ。彼女はべ、と舌を出した。
彼女には恋人がいる。継国巌勝ではない。
その関係が始まったのはバイトの飲み会のあった夜のことだった。飲み会で彼女の隣に座ったのが継国だったのだ。継国と彼女は何を話すでもなく、継国の隣で静かに飲んでいた。しかし決してその静けさは嫌ではなかった。沈黙が重かったわけでも気まずかったわけでもない。
二次会、三次会と進むに連れて参加者が減っていく。四次会はカラオケだと叫ぶ先輩を尻目に彼女は継国に話しかけた。
「継国くんがこんなに残ってるの珍しいね」
「今日は帰りたくない気分なんだ」
「へえ。どうして?」
顔を覗き込むと青白い顔をした継国が「なんとなく」言って彼女に一瞥を送った。月明りに照らされたその顔はぞっとするほど美しかった。伏せられた瞳が妙に色っぽく、存外に長いまつ毛が月明かりでキラキラと光っていて、彼女は息を呑み見惚れてしまったのだった。
カタブツで真面目な彼は、決して彼女のタイプとは言えなかった。だから今まで彼の美しさに気付かなかった。しかし、一度認識してしまえば何もかもが彼女の好みだった。よく見れば継国は整った顔をしていたし、身長も高く服越しでも筋肉がついていることが分かる。
「じゃあさ。一緒にいようよ。朝まで」
彼女は言った。
それはまさに魔が差したとしか言いようがない。関係が冷え切っている恋人よりも、美しい男と火遊びがしたい。そんな浅はかな下心。彼女はそれに負けたのだ。
「明日って大学は早いの?」
「いや……早くはない…が……」
「だめ?」
するりと彼の手のひらを掴む。ピクリと跳ねる肩。そして彼が彼女の瞳を見つめた。そして継国は何度か逡巡した後でこくりと頷いた。
そこからは早かった。二人は近くのホテルに入り、肌を重ねた。継国は優しかった。彼女は満たされた。恋人にはない優しさと、それから恋人を裏切ったという仄暗い充足感と、そしてこの美しい男を手に入れたという事実に満たされたのだ。
そして最後の仕上げとばかりに彼女はシャワーを浴びてすっかり着換え終えた継国に告げる。
「実は私、恋人いるんだよね」
彼はパチパチと瞬きをして彼女を見た。その顔にゾクリとした。
「だからさ今日のことは秘密にして。わたし今の彼氏と別れるつもりないから」
――さあ、彼は怒るだろうか? それとも悲しむ? わたしを軽蔑するだろうか。
彼女はゴクリとつばを飲み、継国の反応を待った。
すると継国は彼女をジッと見つめ、それからニヤリと笑った。
「知ってる」
「………は?」
それは彼女がまったく想定していなかった言葉だった。
「君に恋人がいることは知っていた」
「知ってたの?」
「ああ」
「知ってて手を出したんだ……ははは…………さいてー」
「でも君は遊び相手が欲しかったんだろう? 俺も……まあ、そんなところだった」
彼は、とても綺麗な笑顔を浮かべた。
「利害の一致ってやつだ」
その時の彼女の身体を貫いた衝動をなんと言葉に表すべきだろうか。彼女はその笑顔に脳髄が蕩けるかと思った。
なんて男だろう!
「ねえ、また会ってくれる?」
「ああ。かまわない」
継国が答えた。彼女はそれに満足した。
そしてその数日後、彼女は継国を呼んだ。その時は継国の借りているアパートに呼ばれた。その次も、そのまた次も、彼は自分のアパートに彼女を呼んだ。
そうやって気付いたら半年が過ぎていた。
あいも変わらず猫を撫でているセフレに彼女は言う。
「継国くんってなんで猫飼ってるの?」
しかし継国は「んー……」と言うばかりだ。
「じゃあ、質問変える。継国くんって弟いるよね」
「…………ああ」
「わたしさ、弟くんに会ったんだよね」
つい一週間前のことだ。彼女は連絡をしないで継国のアパートを訪ねた。恋人に別れ話を切り出して喧嘩になった直後だった。むしゃくしゃしていたから彼に慰めてもらおうと思った。継国は何も聞かない。ただただ静かにそこにいて、優しくしてくれる。彼女はそうされたい気分だった。
しかし彼女が玄関のベルを鳴らしてドアを開けたのは、違う男だった。
「どちら様ですか?」
気だるげなその男。継国によく似ていた。兄弟だろうか。
「……バイト先の者です。継国くん――巌勝くんはいますか?」
男は「バイト先の?」と呟き目を細めた。
「兄は今、眠っていますが」
「そう…ですか。では、また改めます」
この男の視線――値踏みするような視線に不快感を覚えた彼女は踵を返す。継国くんに弟の躾をしろって言っておこう。そんなことを思っていた。
しかし彼女は直ぐには帰れなかった。
「きゃあ!」
足元に毛玉が跳んできたからだ。見れば、継国の飼っている猫だった。逃げてしまったのだろう。
咄嗟に猫を捕まえ継国の弟に渡す。猫は継国の弟が好きではないらしく、随分とイヤそうな顔をしていた。
「ありがとうございます」
「いいえ。大したことじゃないから」
「そんなことありませんよ。ああ、良かった。兄上に怒られるところだった」
継国の弟は言う。そして「駄目だろう」と猫を叱った。しかし猫はジタバタと暴れるばかりだ。
「俺の言う事なんてちっとも聞かない。この《どろぼう猫》、俺のことが嫌いなんだ」
「《どろぼう猫》? この子のこと?」
彼女は思わず笑って聞き返した。
「あはは。確かにこの子って継国くんにしか懐かないよね」
猫に対して対抗心を燃やしているかのような継国の弟――図体の大きなこの男がほんの少し可愛らしく思えた。しかし、それも一瞬だった。
「この《猫》だけじゃない。兄上はすぐこの家に《どろぼう猫》を招き入れる。気まぐれに」
「え?」
彼女が目を丸くさせると継国の弟は「兄上には困ったものだ」と続ける。
「俺が嫉妬をしているのを見て喜んでいるのだろうな」
継国巌勝と同じ躑躅色の瞳が彼女をとらえる。彼女はピシリと石のように動けなくなってしまった。だが、すぐにムカムカとしか怒りが腹の奥から湧き上がり体中を支配する。
「あなた、継国くんの弟くんだよね? 束縛強いのは継国くん嫌いそうだけどなぁ。それとも継国くんってああ見えて甘いところあるから甘やかしてもらってるの? ブラコンも行き過ぎると継国くんの足引っ張ることになるんじゃない」
確かに継国との関係は『セフレ』だ。そのうえ自分には恋人がいる。決して褒められた関係ではないし、もしもその事を弟が知っているのだとしたら自分は兄についた『悪い虫』に見えているのだろうか。しかし継国とて彼氏持ちの女と分かっていながらに手を出したのだ。自分だけが『悪い女』のように言われるのは我慢がならなかった。
「継国くんから何を聞いてるのか知らないけど、私と継国くんとの関係は継国くんから言い出した事なんだよね。っていうかむしろ『どろぼう猫』は継国くんの方だし」
継国の弟は少し驚いたように目を見開き、それから酷く哀れなものを見るような顔で言った。
「……兄上の悪癖には困ったものだな」
「はあ?」
「兄上は毎夜その形を変える月のように『不誠実』だ。そして兄上はある種の『誠実』さで『不誠実な月』を楽しむ者にしかその御身を与えない」
「言ってる意味分からないんだけど」
彼女の言葉を無視して継国の弟は言葉を紡ぐ。
「兄上は勘違いさせるのだ。平等に月の光が注いでいると。誰でも月を弄する事ができると。或いは、月が誰のものにもならぬと、月を弄するのは自分だけだと」
彼の声はとても静かだった。そして同時に彼女への同情を滲ませている。
「しかし、新月から満月まで、どのような姿の月も俺のものだ。俺のために月は満ち、欠ける」
彼女はひゅ、と息を呑む。
「月は人を狂わせるというだろう。兄上は俺を嫉妬させるためだけに、人を狂わせる。そのくせ、あの人は『勝手に狂った』のだと本気で思っているのだ。
… …ああ、君。あまり兄上に深入りするのは止めておくべきだ」
継国の弟は抱えていた猫を部屋に放つ。猫はパッと奥に消えてしまった。彼女は直感した。あの猫は継国の側に逃げていったのだと。
「兄上は酷い人だ。俺の悋気を可愛がる。その為にどろぼう猫を可愛がる。兄上に狂わされたどろぼう猫には同情するが――しかし、俺は我が物顔で兄上の隣に居座ろうとするどろぼう猫が嫌いだ」
彼女は何も答えずに踵を返した。最悪の気分だった。
その時のことを思い出した彼女は顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「…………継国くんの弟くんさ、ちょっと変だよね」
「弟に会ったのか」
「会ったよ。しかも、なんか嫌味言われた」
「縁壱が? 君に?」
信じられないといった風の口調に苛立つ。
「そ。しかもさ、この子のこと《どろぼう猫》って言ってた。弟くんは《猫》が嫌いみたいだよ」
すると、巌勝はぽかんとして、それから大笑いした。
「ああ、それはいい! あいつが君にそんなことを言うなんてな!」
「何それ」
彼女は唇を尖らせる。
「なんで俺がこいつを飼い始めたと思う?」
巌勝は猫を撫でながら楽しそうに訊いた。
「こいつがいると、弟が不機嫌になるからだよ。俺は弟が俺のせいで不機嫌になるのを見るのが好きだ。俺は弟がとても可愛いと思う」
猫は気持ち良さそうに喉を鳴らしている。巌勝はそんな猫を愛おしそうに見ていた。少し前ならば、きっと彼女は巌勝のことを愛猫家と思っただろう。しかし彼女には分かってしまった。彼は猫を可愛がっているのではない。別の男を見ている。
「ねえ……継国くん。私の他にセフレっている?」
言ってから彼女はしまったと冷や汗をかく。こんなことを聞くはずじゃなかった。それに、なんて声だろう。もっとお互いに軽い関係のはずじゃないか、まるで浮気を疑うかのような声。私が浮気女側なのに!
彼女は思わずシーツを見つめる。彼の言葉を有罪判決を待つ罪人のような心地で待った。
「今のところ君の他に『セフレ』はいないな」
巌勝はなんてことないように言った。
「そう……そうなんだ」
彼女は顔を上げる。巌勝の背――好ましく思っていた美しい背がそこにあった。広い背中。うなじから背筋の線に沿って目線を滑らせていく。そして腰のあたり。そこに小さな赤い跡があった。彼女の脳裏に巌勝の弟の姿が浮かんだ。
――セフレはいない、ね……。
何かが泡のように弾けてなくなっていくのを感じた。
それから二週間後、彼女はバイトを辞めた。
そして友人とともに温泉旅行のために飛行機に飛び乗り、縁切り神社で今の彼氏との縁切りを祈願した。海の幸山の幸を食らい、酒を飲み、身体の疲れを癒やし、旅行を満喫して帰った彼女は自室で所在なさげに鎮座している腕時計が目に入る。
それは継国巌勝が誕生日にくれた物だった。
彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら少し思案する。そして「…………メルカリで売るかぁ!」と言ってプルタブを引いた。旅行帰りのビールは身に沁みた。