教えて!推しライフ
縁壱はあまりの居心地の悪さに「ちょっとトイレ」と母親に言ってその場から逃げ出した。失礼しますと小さな声で繰り返してその集団から離れる。足早に少し離れた場所に行き、振り返ると集団――沢山の女性が道を作るように形成された列の中から母親が心配そうに肩越しにこちらを見ていた。
「心配ないから」
口パクで伝えて手を振ると、ホッとしたようにほほえみ向き直る。それを確認してから縁壱は壁にもたれ掛かり天を仰いだ。
「………………………疲れた」
縁壱は大きく深呼吸をした。
縁壱がいるのはとある劇場の地下である。サラリーマン向けの飲食店が並ぶその通路で列を形成する彼女たちのお目当ては先程まで上階の劇場でパフォーマンスをしていた俳優たちだ。この劇場の楽屋の入口は地下にある。いわゆる「出待ち」と言うやつだ。彼女たちは各々の【推し】に会うのを今か今かと待ちわびているのだ。そして縁壱の母親もその例に漏れず【推し】を待っている。
「お願い! 一緒に観劇に行く予定だったお友達が熱を出してしまったらしくて、このままじゃ空席作っちゃうから一緒に来てくれないかしら?」
両手を合わせて祈るようにしながら母親が縁壱にそう言ったのは公演前日の夜だった。
彼の母親はもともと過保護気味だった。身体の弱い彼女は苦労して産んだ縁壱をいたく可愛がった。それはもう目に入れても痛くないほどに。しかし縁壱が成長し巣立ちを目前にして彼女は喪失感にすっかりふさぎ込むようになってしまった。それを心配した縁壱は母の日に舞台のペアチケットをプレゼントした。元気づけたかったのだ。
そしてその作戦は期待以上の効果をもたらした。帰宅した彼女は一言「【推し】ができたわ……」と呟き「縁壱、ありがとう」と息子を抱きしめた。その日から彼女は一変した。生き生きと【推し活】を始め【推し友達】を作るようになった。そうなると喪失感どころではなくなる。彼女は無事に子供離れできたというわけである。
そんな母親の【推し活】のために、縁壱は二つ返事で観劇の誘いを受けた。
しかし少しだけそれを縁壱は後悔していた。舞台は素晴らしかった。舞台ではなく問題だったのは縁壱のその身体の大きさである。縁壱は一九〇センチと大柄で、体格も良かった。それに対して座席が狭いのである。足がなかなか収納できない。それに身体を縮めなくては後の座席の人の視界に入り込んでしまうだろう。上演中もそればかりが気になってしまった。
「マナーを守れば大丈夫よ」
幕間に母親はそう言うが、ロビーに出た縁壱は女性化粧室の長蛇の列を見て恐れおののいていた。そしてあまりにもラフな己の格好も恥じた。そう言えば母親も着飾っていた。あまりにも場違いに思えたのだ。おまけに舞台が終幕すると母親は申し訳無さそうに言う。
「出待ちしたいの」
そして冒頭に戻る。
縁壱は地下から階段で外に出た。舞台は楽しめた。しかし疲れてしまった。そう思うこと自体がなんだか申し訳なくて、情けなかった。
外はもうすっかり夜になっていて、冷たい夜風が縁壱の頬を刺す。それが心地よい。深呼吸をすると肺いっぱいに夜の空気が広がる。いくらか気持ちが落ち着く。縁壱はスマホを取り出して「外で待ってる」と母親にメッセージを送った。
そうやって手持ち無沙汰に通行人を眺めること数十分。
「あ」
縁壱は思わず声を出した。目の前を先程まで舞台の上に立っていた男を通り過ぎたからだ。
彼の名は「時透巌勝」。母親の【推し】である。
年齢は縁壱と同じ。新進気鋭の若手俳優で、アクションと影のある人物を演じることを得意とする……らしい。母さんは俺に似てるって言ってたっけ、と縁壱は目で彼を追う。黒で全身を統一させた格好で颯爽と歩いている。すごい、それだけで様になるなんて流石俳優だ。そんなことを思った。俺に似てるなんて、そんなことないじゃないか。やっぱり母さん子離れできていないのかな。縁壱がぼーっと巌勝がマネージャーらしき人物とタクシーを捕まえるところを見ながら意識を母親に飛ばしていると、ふいに巌勝がこちらを見た。
「っ!」
目があってしまった。ドキリと心臓が跳ねる。だがすぐに巌勝はタクシーに乗って去ってしまった。残された縁壱はへなへなと座り込んでしまった。
それから座り込んだままどれだけ時間が経ったのか、縁壱には分からなかつまた。二、三分だったのか、数十分だったのか。
「あれ、縁壱どうしたの? 気分が悪い? 目眩がする?」
いつの間にかそばに母親がいた。彼女は、座り込んでいる息子を前にどうしましょう、とオロオロしている。
「母さん」
「なあに? もう大丈夫になったの?」
縁壱はふらりと立って夜空を見上げた。黒黒とした夜空に満月が煌々と輝いていた。
彼の頭の中には先程の光景が繰り返し流れている。
タクシーに乗り込むところだった巌勝とたまたま目があった。その瞬間――彼の無花果色の瞳にとらえられた瞬間、時間が止まったように世界がスローモーションになったのだ。縁壱は巌勝の瞬き、まつ毛の震えさえ見えた気がした。巌勝はふ、と微笑みかける。薄い唇が美しい弧を描き、目は優しく細められた。とろりと甘いジャムのような目線だ。そして顔の横で親指と人差し指を交差させるポーズを取る。縁壱を窺うように少しだけ顔を傾けると、さらりと彼の髪が顔にかかった。巌勝はその髪を払い縁壱から目線を外してタクシーに乗り込んだ。
夜道を走り去るタクシーを呆然と見ていた縁壱は、やがて「ひぇ」と悲鳴をあげてヘナヘナと座り込んでしまった。
彼と目があっていたのは時間にすればほんの数秒だった。十秒あるかないかである。しかし、縁壱にとっては五分にも十分にも感じられた。それなのに、彼が車に乗ってからは時間が倍になった。あっという間にいなくなってしまった。
「ねえ、どうしたの? やっぱりどこか悪いの?」
母親が縁壱の顔を覗き込む。
「ううん。俺は平気だ。それどころか、今、俺の生きがいを見つけた」
「え?」
「母さん。ありがとう。これは運命だったんだね」
「え? え?」
「時透巌勝のこと、教えて」
「んんん?」
「一生推す」
母親は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。しかし縁壱は輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。
ファンの間で有名な「ヨリイチさん」と呼ばれる巌勝強火ヲタが生まれた瞬間であった。