昔から兄に褒められれば心に羽が生えたような心地になったし気まぐれにお菓子を口の中にひょいと投げ込まれた時は余計に甘く感じられた。
そんな風に思うのは巌勝だけだった。この人に甘やかされたい、褒められたい、世話を焼かれたい。そう思うのも巌勝だけだった。
その事を自覚したのは二人が六つの時だった。
縁壱は三泊四日の剣道教室の合宿に参加した。巌勝はあいにく風邪を引いてしまって留守番となってしまったため、一人での参加だった。
巌勝の体調不良が心配で自分も留守番すると主張した。縁壱としては合宿どころではないのだ。しかし顔を真っ赤にさせた兄が無理に笑顔を作り「縁壱は行っておいで」と送り出したので渋々参加した。
それだけでも不貞腐れていたのだが、合宿二日目に縁壱は明らかな体調の変化を感じた。元来体が丈夫であったためか目に見えるような不調は見受けられなったのだが、どうにも力が入らない。それでも教室の誰も縁壱に勝てなかったのだが、注意散漫で何度も叱られた。
そして不安でいっぱいになった。まるで天井や壁が縁壱を押し潰そうとしているように感じられた。足が竦んでしまう。立っているのも辛かった。
遂に縁壱はべそべそ泣きながら『もしもの時に』と兄から渡されたテレホンカード片手に施設を彷徨いた。どうしても巌勝の声が聞きたかったのだ。
しかしどこにも公衆電話がない。パニックになった縁壱は施設を飛び出して駅を目指して走った。三時間疾走して施設から五十キロ離れた駅の公衆電話から家に電話をかけた。
当然しこたま怒られた。
普段は縁壱を甘やかす母まで声を荒げて怒っていた。巌勝にも怒られた。
しかし、最後に「もしも最終日に、ちゃあんと試合に参加したらご褒美をあげるから」と巌勝は声を小さくして言った。
「ご褒美?」
「うん。もう風邪が治ったから、縁壱が帰ってきたらホットケーキを焼いてやるからな。もし優勝したら特別に二枚だ!」
ホットケーキ好きだろ、とうきうきした声が受話器から聞こえてくる。
縁壱はぎゅっと受話器を握りしめた。
ホットケーキが好きなのは巌勝だ。母親が作ってくれるホットケーキが好きなのだ。あまり作ってくれないから自分で作っているけど、母親が作るように上手く作れないから何度も練習している。縁壱はそれを知っていた。
「うん。俺、ホットケーキ食べたい。優勝したら、沢山誉めて。良くやったな、偉いなって沢山誉めて」
縁壱は言いながらべそべそと泣き出してしまった。寂しくてたまらない。でも、褒められたい。褒められるためには合宿にちゃんと参加しなくてはならない。
「母さんに作ってくれるように頼んでみるから、楽しみにしとけよ」
「嫌だ。兄さんが作ったホットケーキがいい。兄さんのがいい。じゃないと兄さんからのご褒美じゃない。兄さんのご褒美がほしい」
受話器の先から困ったような声が聞こえた。それと同時に後ろから焦ったような教室スタッフの声が聞こえてくる。その声が巌勝にも聞こえたのだろう。
「あんまり困らせちゃだめだぞ」
「……ごめんなさい」
「うん。俺じゃなくて先生たちに謝ろうな」
「……うん」
「じゃあな。ホットケーキ、楽しみにしとけよ」
「……うん!」
そうしてスタッフに回収された縁壱は、べそべそと泣きながら「ごめんなさい」とスタッフに謝り、やっぱりしこたま怒られた。そして最終日の試合だけは人が変わったようにやる気を見せた。スタッフからも、他の子どもたちからも褒められたけれど、頭の中はホットケーキでいっぱいだった。
帰りのバスの中では無表情ながら心なしかソワソワと落ち着かない様子で「帰ったら兄さんがホットケーキを焼いてくれる」と周りの子どもたちに自慢した。ちょっとだけ呆れられていたことを縁壱は知らない。
家に帰って巌勝に思い切り抱きつきすりすりぐりぐりと頭をこすりつけた。鼻の奥がツンと痛くなった。泣きそうだった。
巌勝は「まず『ただいま』だろ」とパシリと額を叩いて「挨拶の出来ないやつにホットケーキは無し!」と言う。
「た、ただいま……」
「うん。おかえり。手、洗っておいで。ホットケーキ食べよう」
にこりと笑う巌勝に遂に縁壱は泣き出した。
「俺、兄さんのホットケーキが好き!」
わんわんと泣きながらそう叫ぶ縁壱にどうしたらよいか分からず巌勝はとりあえずホットケーキを食べさせながら「お前は本当によく分からないな」と呟いていた。
その日から縁壱の好物は巌勝の作るホットケーキになった。
そして巌勝は縁壱が事ある毎にご褒美にホットケーキを作ってほしい、手ずから食べさせほしいとねだるようになることをまだ知らない。