NOVEL short(1000〜5000)

極楽蝶

あ、蝶々だ。  
 うたが言った。縁壱が彼女の目線を追うと小さな白い蝶がひらひら飛んでいた。  
「春だな」  
「春じゃなぁ」  
二人は顔を見合わせた。うたがにっこりと笑うと縁壱の纏う空気も柔らかくなる。無表情ながら彼も笑っているのだと分かり、うたは嬉しくなった。  
 縁壱がうたのもとに身を寄せてから四回目の春を迎える。彼の纏う空気はずっと豊かな色を持つようになった。

 白い蝶はひらりと縁壱の鼻にとまる。くすぐったいのだろう、鼻に皺を寄せくしゃみをする彼がなんだか面白かった。うたはきゃらきゃらと笑い、縁壱は照れくさそうにうつむいてはにかんでいた。
   
 二人で手をつないで家に帰る道すがら、うたは縁壱に言う。  
「蝶々はな、死んじまった人の魂なんだと」  
「死んだ人の?」  
「ああ。いくさの時にな、お侍さまがいっぱい死んじまってな。そん時に黒い蝶々を沢山見たって、みぃんな言ってた」

 縁壱はそれを聞いてハッとしたように立ち止まった。  
「どうした?」とうたが訊くと「なんでもない」と言って歩き始める。何でもないことはないだろう、とうたが顔を覗き込むと縁壱の目が泳いだ。  
「その蝶は……侍の魂は、ちゃんと天国に行けたと思うか?」  
うたの視線に負けたのか、俯きがちに縁壱は呟く。  
「うーん。戦で死んじまったお侍さまは地獄行きなんだと。だから黒い蝶々になるんだって偉い坊さんは言っとったなあ」  
可哀想になあ、畑仕事なんかもあったろうになあ、家族もおったろうになあ。うたは縁壱の手を引きながらそう言った。

「侍は、地獄に落ちるのか? 善い人であっても、戦で死んだ侍は天国に行けないのか?」  
縁壱の不安げな声にうたはキョトンとして考えたこともなかったなあ、と呟き「でもな」と続ける。  
「戦場でな、蝶々がたっくさん飛んでるのを見たことがあるぞ。だから、きっと仲間のことを心配して蝶々になったんじゃなあ。そんな風に思われる人が悪い人ってことはなさそうだしな、きっと、蝶々は天国へ連れてってくれるんじゃねえのか!」
「!!」
うたは鼻息荒く「我ながら頭いいぞ…!」とぶんぶんつないだ手を振り回し、縁壱も「さすがうた!」とばかりにぶんぶん首を振っていた。
「天国に連れていってくれるなら、蝶々も天国にいけるに違いねえな!」
「うん……!」

 二人は顔を見合わせて笑い合うと手を繋いで家路を歩いた。

 家族を失った少年少女は二人、手を取り合って生きる。
 飢えることも病になることもない世界。動物たちは二人を見守り鬼も大人もいない御伽話のような世界。
 幸福な子供時代。
 大人になりお互いが形代でなくなった時に終わりを告げる御伽話の時代。
 互いを自身が思い描く幸せな家族の形代として、二人だけの世界で生きていた。

 白い蝶はそんな大人になる前の二人を祝福していた。





 黒と黄で織られた大きな翅の蝶がひらひらと飛んでいる。ひらひら、ひらひらと暖かな陽射しの中を漂っていた。
 縁壱はすい、と指を差し出す。すると蝶はひらりと止まり翅を休めた。
 それを見ていたすやこは「わあ…!」と瞳を輝かせる。どこか、うたに似ていた。

 炭吉、すやこ夫婦が住んでいるこの家は、かつての面影を無くしている。もう七年程この場所には訪れていなかったのだから当然のことかもしれない。縁壱はそう感慨深く彼ら家族を見やる。
 しかし、こうも違っていると、まるでうたと過ごした十年の月日が泡沫のようだと思った。いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。そうも思った。


 実のところ、縁壱は怖かったのだ。
 この場所に来れば否が応でもうたのことを思い出す。自分の過ちを思い出す。それを直視することが怖かった。だからこの場所を忌避していた。
 
 あの日、自分が側にいれば良かったのだ。うたは一人ぼっちで死んだ。助けてくれる人もなく身重の体の彼女はどれだけ心細かっただろう。彼女の死は受け入れ難く十日ばかり縁壱は世界を拒絶した。なのに死ねなかった。

 煉獄は死ねずにいた彼に鬼を狩ることを教えた。もうこんな悲しい思いをする人が現れないよう剣士は刀を握るのだという。それが彼ら流の悲しみを乗り越える術だと教えてくれた。
 だから縁壱は贖罪の為に刀を握った。
 鬼を斬ることで誰かの命が助けることが一番の贖罪となる気がしたのだ。

 しかし鬼を斬る度に心が死んでいく。誰にも言えないが鬼を斬る感触がおぞましかった。鬼の首を刎ねたその瞬間に手のひらから全身にかけて鳥肌がたってしまうのだ。
 挫けそうになる度にうたの形見となった巾着に入れた「笛」を握りしめる。
 そして心を殺して鬼の首を刎ねていた。

 まるで過去の中に生きているようだった。
 未来が見えない。心がずっと山の中の幸福な暮らしに思い出の中にある。

 それが変わったのは兄を助けてからだった。
 世界がゆっくりと動き出したのだ。空白の時間を埋めるように兄と共にいた。心の預け先が見つかったのだ。
 彼にすべてを捧げ、すべてを与えられたかった。巌勝はそれを許してくれた。夢のような数年間だった。
 時が止まれば良いと何度も思った。
 そして、かつてそれを巌勝に言ったことがある。

 己の下で仰向けになったまま痙攣する体を抱き起こし口づけを交わす。滑らかな髪をもてあそびながら巌勝の唾液をすするとびくびくと腕の中の体が震えていた。
「このまま時が止まれば良いと……そう思うことがあります」
そう言って甘えるように首筋に舌を這わせると、巌勝は「わたしも、時が止まれば良いと思うことがある」と言った。
「でも、いつだって現実はすぐ目の前に横たわっている。お前には……それが見えていない」
「おれにとって、兄上が現実です」
「…………お前は子どものようなことを言うのだな」

 巌勝はそう言って縁壱の髪を指で梳いていた。
「子どものまま、無垢なまま……清らかなままの……そのままのお前が…………いっとう尊いよ」
うたうように口にする巌勝の言葉に酔いしれた。



「縁壱さん、いらしてたんですね!」
 炭吉の声に縁壱の意識が過去から現実に戻る。
 彼は屈託なく笑いながらあれやこれやと縁壱に話しかける。

 ふと、彼にすべてを打ち明けてしまおうかと思った。
 幼少期のこと。うたとの幸福な時代のこと。贖罪の日々のこと。それから兄と再会し止まっていた時が動き出し、それから、それから――。

 指先に止まった蝶が飛んでゆく。
 天に昇っていく蝶を見ながら、縁壱は口を閉ざした。

 夢だったらどれほど良かっただろう。
 醒めない夢の中の中で生きていたかった。


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 夢を見た。
 いつの日か見た白い蝶を追いかけていって、捕まえる。そのままてくてくと歩いてゆくと、ここが地獄なのだと気が付いた。
 歩いていると、父と母がいた。鬼狩りの仲間たちがいた。うたがいた。
 やがて、大きな藤の木が現れた。その下に巌勝がいた。

 七つばかりの幼い姿の彼にかけより膝をついて抱きしめる。衝動的に彼の小さな口に己のそれを合わせた。
 しばらくそうしていると
「兄上」
と声がする。目の前に三畳間にいた頃の幼い己の姿があった。それは縁壱の腕の中の巌勝を物欲しげに見ていた。
 腕の中の幼い彼はくったりとしている。半開きになった口からは真っ赤な舌が覗いている。その姿もまた縁壱はよく知っていた。だらんと弛緩した腕を握り、もう二度と奪われないように、何からも隠すように抱きしめ直す。

 すると、腕の中の巌勝が弱々しく縁壱を呼んだ。
「兄上、兄上」
縁壱は巌勝の顔を覗き込む。かつての巌勝はにこりと笑い「泣くな、縁壱。男の子だろ」と言う。
「もう、お前は子どもじゃないから。兄さんとの時間はお終いだよ。きっともう会うことはないけれど……縁壱は賢いから、それは分かるだろう」
 そう言って巌勝の体は幾百もの青い蝶となり崩れさった。

 腕の中に残されたのは、白い蝶の残骸だった。
 呆然としていると、幼い姿の縁壱がその残骸を手に取りぱくりと飲み込む。そして嬉しそうに腹を擦っていた。
 もはや縁壱の腕の中には何も残されていなかった。



 夢から醒めた縁壱はふらふらと森の中を彷徨い歩いた。
 鬼狩りを追放となり二年が経つ。
 ずっと、夢であったならば、と思い続けていた。白い蝶がひらひらと飛ぶ幻想を見続け、追いかけていた。


 しゃらん、と耳飾りが鳴る。

 かつての幸福な時代のあの場所に行かなくてはならないと思った。誰かに、すべてを話してしまおう。罪の告白をしてしまおう。
 そして耳飾りはもう置いていこう。もう子どもではないから、太陽の神様のお守りはいらない。

 ひらひらと白い蝶が飛ぶ。
 もう指を差し出しはしなかった。